2013/03/20

ミケランジェロのエスプリ・バックと財布

春の陽気さにつられて、ふらりと入ったお店で思いもかけず財布を買ってしまった。ミケランジェロというブランドで、ニューオータニ博多に繋がるサンローゼの2Fに開店してまだ1ヶ月ほど、オンリーブランドとして東京を差し置いて博多にオープンしたのだとフレンドリーなお店の方が説明してくれた。通常は足を踏み入れることのないホテルに隣接した高級ブティックが並ぶサンローゼだが、意外と穴場である。私自身の年のせいか、建物が重ねた年月の重みかは分からないが、気張らずゆっくり落ち着いた雰囲気がいい。お店の方も急かせることなく、好きなだけ迷って下さい、といった感じで有り難い。品物をじっくり見る事が出来、あれこれ試しながら色々アドバイスもいただいた。自分であ~だ、こ~だと思っていても実際には外れるものだ。その意外さが楽しく、ついついお店に長居することになってしまったが、お蔭でとてもいい買い物が出来た。  「財布なんて買う気全然なかったのに・・・」
「縁でしょうね。人と同じように物との出会いも縁ですから。」


縁といえば、お店にいる間中、あちらこちらから愛らしい視線を感じた。デコレーションのように飾ってある人形達だ。ビビッドなバックに決して埋もれず、それぞれ個性的なファッションと大きな瞳でアピールしてくるのだから面白い。イタリアからやってきたお嬢さんたちだが、その存在感は流石シニョリーナだと感心してしまうほど。思わず連れて帰りたくなる。そう思うのは私だけではないようで、「一人じゃ寂しいでしょうからと2つ買い求められたお客様もいらっしゃったんですよ。」「えっ?デコレーションじゃないの?」
実は少し先にある系列店の商品らしく、購入することが出来るのだ。
「気が合う子がいたら連れて帰ってあげてください。私も今考えているところなんです。」
そう言っていたづらっぽく笑う彼女に抱かれた人形はその茶目っ気が彼女に似ていた。
「縁かな・・・。」

「また気軽に遊びに来てくださいね。」何だか友人の店を訪れたような気にさせられた。

春、毎年何かしらいつもと違うことを始めたくなる季節。新しい財布を手にする度楽しくなる今日この頃である。

2012/02/01

アリとキリギリス

「アリとキリギリス」はイソップ寓話の中でも特に知られたストーリーだ。「勤勉を怠るな」という教訓は子供の頃は元より大人になっても例え話によく登場する。
昭和末期から平成初期、経済大国に伸し上がった日本人は世界からWorkaholic/ワーカホーリック(仕事中毒)などと詰られ、「働き蜂」や「蟻」に喩えられて嘲笑され、自らもそんな蟻人生で幸せなのかと疑問に持つようになったが、今から見ればバブル時期、「夏」の季節だったのだろうか。私の周りでも多くの蟻が蟻であることにうんざりし、キリギリスに憬れた。

日本で馴染み深いイソップ寓話は、フランスではラ・フォンテーヌの寓話として知られている。紀元前6世紀にギリシャ人のアイソーポス(イソップ)によって作られた(集められた)とされるイソップ寓話はギリシャ語からラテン語、ラテン語から英語やフランス語に翻訳され広まった。日本で初めて紹介されたのは1593年、イエスズ会の宣教師によってらしい。フランスでは1668年、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌという詩人がイソップ寓話を基にした寓話詩を発表し、その為「アリとキリギリス」も「北風と太陽」も「キツネと鶴のご馳走」もラ・フォンテーヌの寓話として知られている。

私はこの「アリとキリギリス」について、フランスのカフェで驚きの発見をしたことがある。コーヒーに添えられた角砂糖の小さな包紙、表にはアリと虫の絵、裏にはストーリーが簡潔に書かれていた。まず驚いたのは、キリギリスがフランスではCigale/シガール(蝉)だったことだ。蝉の奏でが美しいとは思い難い私は違和感を感じたが、フランスでは蝉の声は南仏、夏、バカンスを連想させるようで、いい音色なのだそうだ。蝉=うるさいにはならないらしい。もっと吃驚は話の結末だった。私の知るイソップでは冬、飢えと寒さで助けを求めてやって来たキリギリスに蟻は食べ物と暖を与えてくれる。そこが蟻の優しさであり、器の大きさでもあるのだと解釈していたが、ラ・フォンテーヌでは違った。蟻は素っ気なく言う。「音楽を奏でて稼げば」「寒さと飢えでもう弾けない」と答えるボロボロのキリギリスに更に言い放つ。
「じゃあ今度はダンスをすれば!」
何故だか私は自分に言われたような気がして、思わず手にしていたクロワッサンを落としてしまった。

私は「蟻」である日本人で、ヨーロッパではそれを感じることも度々あったが、蟻世界に戻ると「キリギリス」なのである。フランスでのあの発見以来、「じゃあ今度はダンスをすれば!」が脳裏にこだましている。ダンスか・・・ふと思い出し、昔数か月で断念して直し込んだフラメンコの靴を引っ張り出した。ダンス用の靴だけあって、履き心地は抜群だ。普通の靴として利用できないものかとあれこれ工夫してみた。フムフム、これならリクルートスーツにでも履けそうだ。

キリギリスにはキリギリスの言い分があるが、特に厳しい冬の今は何を言っても負惜しみにしかならない。黙って冬を乗り越えるべし。だが季節の冬は待つだけで春が必ずやって来るが、人生においては自ら春に近づいて行かない限り冬は永遠と続く。これはイソップにもラ・フォンテーヌにもない、経験から得た教訓だ。おまけに働き者の蟻ですらバッサリ切られるこのご時勢、蟻もキリギリスもあったものではないのかもしれない。いったいどんな人間が生き延びていけるのか?答えを見つけるにはまだまだ時間がかかりそうである。

2012/01/20

とっさのひとこと

今就職探しをしている。厳しく、複雑化したこのご時勢だ。ハローワークだけには頼れない。
インターネットの就職情報サイトや派遣会社のHPを通じて情報を集める。ハローワーク以外の求人はほとんどが派遣会社を介するので、まずそこに履歴書や職歴表を持って登録に行かなければならない。その派遣会社は様々で、これまたその数も限りなく、何が何だか分からなくなっている。知人の友人が30社もの派遣会社に登録をし、渡歩いているという話を聞いて驚いたが、様子が分かってくるほど「さもあらん」大袈裟な話ではない。勿論年齢の壁が大きい。新聞の特集にも載っていたが、40代の就職は年齢プラス10件分応募して、1件でも面接にこぎ着ければ良い方なのだそうだ。改めてこれまでの運の良さと、それによる自分自身の甘さに直面するこの頃だ。自由勝手をしてきたツケがこれか。ならばやるしかないのだが、重く長い就職活動。それでもこれからしっかり腰を落ち着けて打ち込める仕事が見つかれば良いじゃないか・・・自分自身を勇気付けていたところ、キャリアカウンセラー曰く、「これからはそんな考え方ではいけませんよ。何が起こるか分からないからね。まぁ10年、いや5年続けられれば良い方かな。」
定年まで・・・なんて考えない方が良いのだそうだ。なんと世知辛く、落ち着けない世の中か。
でも仕方ない。文句言っても始まらない。やるしかないのだ。

とある英会話学校の常勤英語講師に応募してみた。何とか語学に関わっていたいという希望からだが、運よく2次選考まで進んだ。選考はなかなか厳しいものだった。募集の必要条件で英語のレベルはかなり高い。その上1次選考で、英語の筆記と実技テスト、英語での質疑応答があった。正直2次選考に進んだのは意外なくらい、それだけにがんばろうという気になった。個人的にしか教えた経験などないがとにかくベストを尽くそう!心臓がバクバク打つのを抑え、限られた時間内で課題のテキストを頭に入れ、授業の実演に臨んだ。生徒役は学校側から2人のボランディア、ダイアローグを読んでもらい、文法を説明し、練習問題へ進む。
"Can you do the second question?"
生徒役が生徒らしく自信なさ気にゆっくり答える。私は「そうよ、そうそう」と促す気持ちで、
"Oui. Oui,oui/ウィ。ウィ、ウィ"
とっさのひとことである。あれ?と思った時には既に遅し。私の口から出たのは、こんな時に限って、フランス語だった。あちゃ。いつもスラスラ出てきたことなんかないくせに、こんな時に出て来なくても。

未だ3次選考への連絡なし。また振り出しに戻ったようだ。人生とは厳しい学びの学校である。
それにしても我ながら笑ってしまう失態だった。

2012/01/08

元気なジャポネーズ

久しぶりに日本で正月を迎えた。「日本のニューイヤーはねぇ、」とヨーロッパで得意そうに言い回っていたが、近年では正月飾りもシンプルになり、元旦から通常通り営業なんてところも多く、初詣に行っても着物姿をほとんど見かけないあっさりしたものである。  それでも年頭にあたり、日頃は「何を今さら」や「わざわざ改めて言わなくても」的な事柄を話題にするのが憚れないのは良い機会だと感じる。いったい日本は、世界はどうなっていくのだろう?そんなことに考えを巡らせるが、正月から暗くなってしまいそうにもなる。日本に来た留学生の「日本になくて、自分の国にあるもの」が「元気」であるという記事を見て、「何を!」と感じつつ、否定できない。個人的にも萎れていく元気を留めるのに必死でやっとなレベルである。

ところがふと目線を移すと、とっても元気な日本人が傍にいた。4歳になる双子の姪っ子達である。休暇に関西からやって来た。日頃は両親が共働きなので保育園に行き、「お仕事」の一言でわがままはストップさせられる。ところがこんな時は両親だけでなく、おじいちゃんもおばあちゃんも叔母までちやほやしてくれるから、もう嬉しくて楽しくて、気分は高まるばかりで天井知らずのようだ。
私は姪っ子達が生まれた時から、何と呼ばせようか楽しみに考えていた。間違っても「おばちゃん」はいけない。ところが2歳の誕生日に送ったぬいぐるみに2人が「ピピちゃん」と名付け、それから私は「ピピちゃんのおねえちゃん」と呼ばれるようになった。初めて聞いたときは絶句した。実はPiPi/ピピとはフランス語でおしっこ、まさか姪から「おしっこのおねえちゃん」と呼ばれるとは夢にも思わなかったからだ。だがその呼び方のあまりのかわいらしさに、今では自ら「おしっこのおねえちゃんですよー」となっている。オババカとはこのことか。

双子とは面白い。全くもって対等な存在であり、いないと寂しいが、いると張り合う。性格が全く違うから、片方がこう言えばもう片方がああ言う。好みも正反対で(好みというより張り合っているだけのようだが)大人は大変だ。それでも「随分喧嘩をしなくなったわねぇ。」と褒められ、みんなでお別れをした直後だった。玄関で靴を履かせようとしていたら、「あっ、新聞」片方が裸足のまま郵便受けへ走り出て、中から新聞を取り出そうとした。
「だめでしょ!」声を張り上げ、すかさずもう一方がとびかかった。それでも何とか新聞を手にした片方に、もう一方が掴み掛かかる。「ルール違反、靴はいてないでしょ、靴、靴、靴!」
新聞を放せと力いっぱいたたいたり、髪を引っ張ったり。実は数日新聞取りはもう一方の特権のようになっていたので、最後に先を越されて頭にきたらしい。だが片方も負けてはいない。女の取っ組み合いが始まった。通常なら「これこれ」ですむのだろうか、その凄まじさに大人は唖然。特に私は框に座った姿勢で、幼児とは言え全身怒りを露わにし、真正面から飛び掛ってくる姿を同じ目線で目の当たりにしたのだった。、「ニッポンの春」でも始まったのか?度胸は人並み以上と自負していた私もその直情にたじたじ。結局は父親の腕力で喧嘩両成敗、泣き叫ぶもおばあちゃんの「ニワトリさんにバイバイしに行こう」の一言でケロッと涙が止まった。これまたその切り替わりに脱帽するが、何とか電車にも間に合い、めでたしめでたしだった。喧嘩も元気の素、二人ともあれだけ逞しければ苛められることもなかろう、身内びいきで思い出す度笑いたくなる。
こんな天真爛漫なひよっこ日本人がそのまま元気に伸び伸び生きていける社会にしたいなぁ。切に感じる2012年の年初めであった。
それにしても流石は母親だ。か弱い筈の彼女が、「いつものことなんですぅ。」と事件の最中、ビクともしなかったらしい。

人生まだまだ未熟だなぁと我感じる2012年の幕開けである。

2011/12/29

年の暮

ヨーロッパでの大晦日と新年はクリスマスからの不摂生の延長で、ぐーたら突っ走ってしまうのが恒例だ。だから年末大掃除なんていうのも特にない。感覚としてはクリスマスで年の区切りが付いた感じ。日本の正月三箇日気分がクリスマスからずっと続いて、大晦日の年越しパーティでその締めの大騒ぎをし、元日はゆっくり寝て2日からの仕事に備えるというのが一般の過ごし方のようだ。

ヨーロッパに浸りきるのが好きな私だが、これだけはどうも馴染めない。新年をぐーたら迎えるわけにはいかない!と焦ってしまう。年末しっかり埃を落さなければ、翌年の良い運も逃げるような気がしてしまうのだ。「文化の違い」ですまされることではない。普段はぐーたら怠け者の私が年末に限り奮起して大掃除を始める。それを見たフランス人達は当然吃驚する。ヤギってきれい好きだったっけとフォアグラやキャビアや七面鳥の食べ過ぎでどんよりした頭に?を描いて肩をすくめられたこともある。
ある時、この寒いのに何でまた?と尋ねる隣人に話したことがある。日本では1年の汚れをきれいに落して新しい年を迎えるのが習慣であること、正月は日本人にとって大切だが、食べて飲んで楽しむだけでなく、「一年の計は元旦にあり」とも言うように、1年の抱負や計画などを考えるいい機会にもしていると話すと、日本の文化に特に興味があるわけでもない隣人だったが、意外にもひどく感心されてしまった。クリスマス中、食べて飲んで体重が気になり始める年の暮でもあったから、私の話が新鮮に響いたのかもしれない。「日本のフィロソフィー(哲学)は素晴らしい。そうだ運動不足だし、これから家の周りの掃除でもするかな。」とすっかりその気になってしまった。実を言うと、感心したのは私自身でもあった。それまで当たり前すぎた年末と正月の習慣に、海外の地で文化の全く違う人に説明しながら、初めてその素晴らしさに気付かされたのである。
ただ義務的面倒くさかった年末掃除、その年に起こった良い事、悪い事に感謝や反省をしながら汚れを落していって、すっきりきれいな清々しい気分で元日を迎える、そういうことだったのかと理解できるようになった近年である。

今年も思いつく限りをきれいにした。
来年もまた、1つでも多くの良い事が訪れますように。
そして辛い事はそれを乗り越えられる強さが備わりますように。
皆様のご健康とご多幸を願いつつ

さぁ、2012年へ、

2011/12/23

クリスマス・イルージョン --イギリスのクリスマス--

ロンドンに行って初めてのクリスマスのことだ。「ヤギは夢を追いかけてロンドンに行った(実際はそんな大げさなものでは全くない)、今頃本場のクリスマスに浮かれて、はしゃぎまわっとうよ。日本は平日、しかも残業だって言うのに!」日本の友人達は羨ましく忌々しく思っていたらしい。ロンドンで、私もそのつもりでいた。ところがである。クリスマスが近づくにつれ、ヨーロッパのクリスマスは家族と過ごすのが基本であること、25日はロンドンの街全体が休みとなり、地下鉄、バス、列車と公共交通機関も全部運休することを知った。なんてこった!急にクリスマスの華やかさが惨めさを浮き立たせるだけのイルージョンに見え始めた。どうせ私はこの都会に住む外国人。

そんなクリスマス前のある日、フラット(アパート)で日本人同士話していると、友人が言い出した。
「私、クリスマスの飾りって嫌いなんだよね。特にほら、近所の家の前のキラキラしたの、私達はこんなに暖かく幸せよって見せつけられてるみたいでさぁ。」
それぞれ初めての外国暮らし、楽しいといいながら気張ってもいたのだろう。イギリスに居ながらイギリス人社会には入れない、留学生特有のもどかしさを痛感し始めた頃でもあり、皆感じていることは同じだった。
「かえって悲しくなっちゃうよね。マッチ売りの少女みたいな気分。窓の外から眺めるだけ。」
この一言は胸にぐぐっと刺さった。「やめてよー、涙が出てくるじゃない!」
みんな一気にセンチメンタルになってしまい、言葉が消えた。しばらくうるうるした後、やっと一人が口を開いた。
「じゃあさ、いっそやっちゃう?」
「何を?」
「マッチ売りの少女だよ。一番きれいな飾りの家選んでさぁ、窓に並んで中をのぞいてたら、かわいそうって中に入れてくれて、ご馳走振舞ってくれるかもよ。」
「何言ってんのよ。『かわいそう』には私達太りすぎよ。」
「ロンドンの住宅地で変な東洋人が窓にへばり付いてんの?怪しすぎる。マッチでも擦ろうもんなら警察呼ばれるだけだよー。」
センチメンタルは脱し、コメディになって笑いが出てきた。

その後結局フラットの住人7人とも、イギリス人家庭からクリスマスディナーのご招待などなく、全員予定なしのクリスマスだと分かった。それなら、と皆で大家に交渉して共同キッチンをディナー会場にする了承を得、悪戦苦闘ながら自分達で七面鳥を焼いてイギリス式クリスマスディナーを作った。デザートはもちろんクリスマスプディング、誰かが近くのスーパーから買って来た。ローストターキーの作り方なんて誰も知らなかったが、幸い私が数日前見たTVの料理番組が役立ち、出来は上々だった。大変口うるさい大家もかわいそうな留学生達と思ったのか、当日ワインの差し入れまでしてくれた。

ということで期待とは全く違ったが、楽しいクリスマスとなったのだった。今でも青春の1ページのような思い出のひとつである。

2011/12/18

クリスマスツリー --- アルザスのクリスマス ---

サンタクロース、クリスマスマーケットの次となると、やはりクリスマスツリーかなと思うのだが、その前にインターネットから得る「情報」についての所感を一言。何かを調べようとする時、インターネットは大変有難い道具で必需品だ。座っているだけで歴史にしろ現代の様子にしろ、世界中のありとあらゆる情報が手に入るのだから、こんなに便利なものはない。ところが実際に使い始めてふと気付く。「いったいどの情報が正しいか」ということだ。確実性の基準がない。                  例えばクリスマスツリーの歴史を知りたくて検索してみる。検索に「クリスマスツリーの歴史」と入れてEnterを押せばよいだけだから簡単なのだが、337万件もの情報が現れ、最初のページの数件だけでもそれぞれ微妙に情報が異なる。おまけに同じ意味でも検索を「History of the Christmas tree」や「Histoire du sapin de Noël」 など言語を変えるとそのバラエティは更に広がり、お国柄なども表れてくる。だがそれらの情報、どこまで信頼性があるのだろう?
ネットでは誰でもが何でも言える状況だ。そんな中、ウィキペディアを主にした検索結果の寄せ集めに過ぎないが、今回はクリスマスツリーについてまとめてみたい。

起源は古代まで遡るようだ。北欧に住む古代ゲルマン民族「ユール」が冬至の祭りに使っていたともされている。民族の祭りの習慣は長い年月を経る間にキリスト教と混淆し、所謂クリスマスツリーとしては1419年にドイツのFreiburg/フライブルグでパン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾ったという記録が最初とされている。またドイツ人のMartin Lutter/マルティン・ルター(1483-1546)によってツリーに蝋燭が飾られるようになり、宗教改革と共に各地に普及していった。1510年にRiga/リガ(バルト海の入江に臨むラドヴィアの首都)で、1521年にはアルザスのMulhouse/ミュルーズで、1546年には同じアルザスのSelestat/セレスタで記録が残っている。なるほどMulhouse/ミュルーズについては現在もカトリック国フランスには珍しく、宗教改革の影響を受けたプロテスタント地域である。また12月21日と日付のあるセレスタの文献には、村の森に飾られたツリーを監視するため、森の番人に賃金が支払われたこと、ツリーを切る者には誰であれ罰金を課すことが記述されているそうだ。
余談だが、1521年はルターが宗教改革の文書の為、カール5世から国外追放された年でもある。

時代は少し飛ぶが、アメリカ合衆国での最初のツリーは1746年、ドイツ移民によって飾られた。当時はイギリス系清教徒から「異教の文化」と反発されたりもしたというから、同じキリスト教ながら面白い。イギリスに入ったのはヴィクトリア王朝時代(1837-1910)だ。女王を公私共に支えた夫のアルバートがドイツ出身であったことかららしい。ちなみに日本では1860年、プロイセンの使節オイレンブルクが公館に飾ったクリスマスツリーが初めとされている。                                       さて最後に現代のクリスマスツリーについて触れておこう。長い伝統からヨーロッパでは本物の樅の木が良しとされていて、今でも毎年11月末には樅の木屋さんが空地に現れ、大小の樅の木(その多くは東欧から)を売っている。風情ある伝統だが反面、エコ活動が進む現代に適していないと大きな議論にもなっている。問題は特にクリスマス後だ。昔は何のことなくそのまま焚き火にでもなっていたのだろうが、現代ではその焚き火が田舎でも勝手に出来ない。都会ともなればゴミ出しに大事で、市のゴミ回収車もお手上げとなっているのが現状だ。

変わらぬ伝統を重んじるか、伝統も時代の流れと共に変化していくべきなのか、クリスマスツリーに限らず難しい問題だと思う。何事も最も困難なのはそのバランスかもしれない。


2011/12/12

クリスマスマーケット --- ドイツ vs アルザス ---

クリスマスマーケットはドイツの風物詩として知られている。11月後半からクリスマスまで街や村の中心広場に木作りの小屋がいくつも設置され、それぞれにクリスマスツリーの飾りやキャンドル、工芸品やお菓子などのマーケットとなる。その中でも名物はホットワインだ。シナモンなど香辛料の入った暖かいワインで、クリスマス柄のマグカップに入れて出される。これを飲めば寒さも忘れ愉快になるという訳だ。またお腹がすけば焼きたてソーセージが待っている。パンに挟んだサンドイッチもいいし、ザワークラフトとの相性も抜群だ。ますます愉快になること間違いなし。流石ドイツ、こうなるとやっぱりビールとなる人も多い。マーケットだから飲んだり食べたりも立ったままでいすなどないが、それがまた良いといった感じだ。昼間はもちろん、暗くなると照明が更に雰囲気を盛り上げ、毎晩遅くまでにぎわっている。

昔Nürnberg/ニュルンベルグというドイツの街に滞在したことがある。それまでこの街がナチスの本拠地だったことを知らず、恥ずかしながらニュルンベルグ裁判が何の裁判かも良く分からなかった。
第2次世界大戦時に街全体焼け野原になったが、戦後見事に修復され、旧市街はまさに中世おとぎ話のような街だ。クリスマス前には市庁舎広場に大規模なクリスマスマーケットが開かれる。お祭り気分でクリスマスツリーの飾りを見て回るだけでも楽しい。現実にはそのほとんどがMade in Chinaと知ると興ざめもするが、食べ物に関してはローカルなものである。この時期ならではのシュトーレン(ドライフルーツやナッツの入ったパン)や郷土菓子のニュルンベルガーレープクーヘン(まるぼうろのドイツ版のようなお菓子、ヨーロッパ最古のお菓子とも言われる)、地元産の蜂蜜やジャム、切り売りのベーコンやチーズ、シナモンをはじめ香辛料の入った紅茶など食べてみたくなるものばかり飽きることがない。Nürnberg/ニュルンベルグのクリスマスマーケットは1628年からと歴史も古くドイツを代表するもので、この時期は世界中から観光客が訪れる、と知ったのは随分後になってのことだった。

 さて今回調べていて始めて知ったのだが、Nürnberg/ニュルンベルグより古くからのクリスマスマーケット、それがアルザス、ストラスブールのクリスマスマーケットだった。1570年に始まったとされ、当時はMarché de Saint Nicolas/サン・二コラマーケットであったようだ。残念ながら私はストラスブールのクリスマスマーケットに行った事がない。だがアルザスではドイツと同じくどこの村でも Marché de Noël/マルシェ・ド・ノエル(クリスマスマーケットのフランス語)が開かれ、それぞれに趣がある。
中でも素晴らしいのはColmar/コルマールのクリスマスマーケットだ。中規模のものが数箇所に分散されていて、街の観光もかねながらゆっくり楽しめる。通常ホットワインは赤だが、Colmarではアルザス白ワインのvin chaud/ヴァン・ショ(ホットワインのフランス語)があるようだ。TVのニュースで「魔法の1杯」と紹介されていた。トリックは香辛料と蜂蜜と沢山のAmour/アムール(愛)・・・流石フランス・アルザスである。


コルマールの観光サイトを見つけたのでご参考までに。フランス語(英語切り替えOK)で、
左下の写真(Images 2011)をクリックすると数々の写真を見ることが出来る。
また中央の下の写真の>を押すと全国版ニュースで紹介された動画が始まって、「魔法の1杯」が見れます。
http://www.noel-colmar.com/fr/

2011/12/03

サン・ニコラの日 --- アルザスのクリスマス ---

アルザスに来て間もないとある冬の日、車での帰宅途中、既に暗くなった田舎道からちょうど村にさしかかる辺りでのことだった。暗闇の中、小路からにゅーっと大男が現れ、私達の車にはっと躊躇したものの、のっそのっそと横切ってまた闇の中に消えていった。
「サンタクロース!」助手席にいた私は叫んだ。愛嬌なんぞなかったが、全身を覆う赤いガウンに白いひげ、紛れもない。
「サンタクロースじゃない。あれはサン・ニコラ!」すかさず運転席から更にデカイ声が飛んできた。
「あぁ冷やっとした。サン・ニコラを轢いたら大変だ。だがありゃ飛び出したあっちが悪い。」
「フランス版サンタクロースがサン・ニコラ?」
「違う!サンタクロースはサンタクロース、サン・ニコラはサン・ニコラ、彼は杖を持っていただろう?それに今日はクリスマスじゃない!そうか・・・ということは12月6日か?いかん、マナラを食べる日だ。パン屋はまだ開いてるかな?」
私がよく理解できなかったのは言葉のせいではない。アルザス人にとって子供の頃から誰でも知っているジョーシキはとっさに聞かれても、分からないことが分からないらしい。よって説明がますます分からないものとなる。ということで、まずパン屋でマナラを買って家に帰り、ショコラといっしょに一服できるまで謎解きは待つことにした。喧嘩回避策でもある。

アルザスでは12月6日をSaint Nicolas/サン・ニコラの日といって祝うのが伝統だ。Saint Nicolas/サン・ニコラはローマカトリック教会の聖人で、西暦270~345年実在した人物らしい。常に子供を保護したことから子供の守護聖人として崇められてきた。サン・ニコラを祝うのはヨーロッパでもオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、フランスではアルザス・ロレーヌ地方、スイス、ドイツ、オーストリアなどで、国や地方により伝統は多少異なるようだ。
アルザスのサン・ニコラは片方の手に杖を、もう片方の手にクレモンティンヌ(みかん)を持って現れ、良い子にしていた子供達みんなにクレモンティンヌやマナラを与える・・・ということで、車の前に現れた大男は12月6日仕事前のサン・ニコラの姿だったことになる。そしてこの日はMannala/マナラという人形の形をした素朴なブリオッシュをショコラ/ココアにつけて食べるのが伝統だ。
Mannala/マナラは「小さな善人」というMulhouse/ミュルーズ周辺(南部)のアルザス語だが、Strasbourg/ストラスブール周辺(北部)になると、Manneleとなるようで、残念ながら正確な発音は分からない。同じアルザス語でも北部と南部では微妙に違うと前に聞いたことがある。

さてでは英語のSanta Clause/サンタクロースとは?という疑問が湧いてくる。サンタクロースはオランダ語で言うSaint Nicolasの「シンタクラース」が語源で、17世紀アメリカに植民したオランダ人が「サンタクロース」と伝えたことから始まったらしい。だが所謂サンタクロースが広まったのは19世紀になってから。ニューヨークの神学者クレメント・クラーク・ムーアが病身の子供のために作った詩がはじめとも言われるが、実際には色々説があるようで明確ではないようだ。ただこの頃からアメリカの絵本や詩にトナカイが引くソリに乗ったサンタクロースの姿が描かれるようになり、全世界に広がっていった。
ちなみにフランスではサンタクロースのことをPère Noël/ペール・ノエルという。妙な繋がりだがサン・ニコラとは別物になり、現れるのは12月24日、よってフランスの子供達は12月6日にサン・ニコラから、12月24日にはペール・ノエルからプレゼントがもらえることになる。プレゼントといってもサン・二コラからはバラエティに富んだ現代でも、もっぱらお菓子のようだ。

昨年の12月6日はMulhouse/ミュルーズのデパートにもサン・ニコラが現れた。バスケットいっぱいのマナラを一つずつ、子供だけでなく通りがかりのお客みんなに配ってくれた。手のひらサイズのマナラとは気前が良い。だが日本のようにビニールに入ってリボン付きなんてことはなく、そのままが手渡される。もらったら、口に運んで食べるしかない。デパート内だけど・・・周りを見渡すとそんなことはお構いなし、誰も彼もがマナラを手にし口にし、ぶらぶらしている。これもアルザスならでは光景かなと微笑ましく思いながら私も可愛い「小さな善人」を頭からぺろりと食べてしまった。

2011/11/09

博多ライトアップウォーク

数年前になるが、派遣先の会社で知り合った同じ派遣友達から誘われて、ガイド付き博多の街巡りに参加したことがある。櫛田神社から東長寺、承天寺など大博通り裏手の情緒豊かな禅寺をめぐり、最後に博多町家ふるさと館に戻って来るという2時間の徒歩コースで、その友人が英語ボランティアガイドをしていたのだった。外国からの観光客に混じって地元の博多巡りというのも変な話だが、初めて訪れるしっとりと落ち着いた禅寺、何百年も昔からアジアへの玄関口だった博多の歴史など知らなかった事ばかりで、興味深くガイドに耳を傾けた。初めは緊張気味だった彼女だが、進むにつれ調子が乗って説明もリズミカルになり、私達参加者は熱心に聞き入った。日本に興味をもつ外国人観光客からは時々鋭い質問も飛んでいたが、彼女がニッコリ冷静に答えていたのには感心した。下調べをし、原稿を書き、練習を重ねて暗記する。ボランティアとは言え、とても大変な仕事なのだそうだ。それでも彼女は色々な知識が増えていくことが楽しいと、派遣の仕事と掛け持ちしながらいつも活き活きしていた。そしてその情熱あるガイドは10人ばかりの参加者全員に「素敵な街・博多」という印象を刻み、最後は皆の大拍手をもってコースを終えた。そして私は数年後、他地方から訪れる友人に博多の街を案内するなら、是非あの辺りをと思ったのだった。

その友人のもうひとつのお勧めが「博多ライトアップウォーク」だった。秋の夜、ライトアップした博多の寺を巡るというイベントで、その期間のみの特別拝観もあるということだった。昼と夜では全く別世界よと彼女は言った。是非行ってみたいと思いつつ数年経ってしまったが、今年こそはと「博多千年煌夜(とうや)」を散策しに出かけた。
通常は拝観無料の各寺だが、イベント期間中18:00~21:00の間は6枚つづりの入場券を購入し、一か所一枚づつのチケットが必要になる。

まずは大博通りに面した東長寺から。普段は人通りの少ない休日の夜の大博通りだが、この日は東長寺に近づくとすでに人だかりがしていて、お祭り気分になってくる。
中に入ると五重の塔が赤く浮き立っていた。本堂もライトアップされ、いつもより大きく荘厳に見える。庭の細やかな部分にもライトデザインがなされ、特別拝観の六角堂は並ばなければならないほどの賑わいだ。灯りに浮かび上がった弘法大師も喜ばしげだった。

東長寺を後に裏手に回り、聖福寺横の妙楽寺、順心寺を参拝する。昼間はなんてことのない寺門までの通りも、やわらかな灯りで彩られ、土塀には山笠のライトアップ、穏かな気温で待ち時間も全く気にならなかった。
承天寺の前「御共所夜市」では、うどんやそば、饅頭が並んでいた。これらの発祥の地であることに因んでだろうか。雰囲気と匂いに小腹が空く。

博多山笠発祥之地ともされる承天寺ではこの日、特別拝観で洗濤庭(せんとうてい)の美しい石庭を本堂から眺めることが出来た。靴を脱いで廊下をまっすぐいくと、目の前に青から紫へと変化する光の石庭が広がる。その幻想的な美しさには思わずため息。座り込んで暫らくぼーっと何も考えずに眺めていたくなるが、その前にまず写真。方丈の縁にずらりの座った人々が、石庭を前に皆それぞれ携帯の画面を覗き込んでいる姿はこれまた現実的な光景だった。案内板の説明には「方丈手前には玄界灘を表現した白砂、奥には中国に見立てた緑庭が広がる洗濤庭、穏かにそして時に激しく・・・玄界灘の波の力強さと白~青~ムラサキへと穏かに変化するグラデーションで表現。幻想的な色彩のハーモニーが、大陸と博多の交流の歴史を今に伝えます。」と書いてあった。ふと記された照明協力企業名に目が留まる。「デンコウ・・・」懐かしさと共に、もうすぐ消えゆくこの標記へのやるせなさが込み上げた。

激しい時代の波が押し寄せているのは玄界灘でも石庭でもなく、日本企業。兄のプライドだの方針が違うだの言ってられるご時勢ではないのだろう。大きな波に乗って同胞溶け合い強みを集結し、日本ブランドとして世界に打って出なければ、情け容赦ない弱肉強食のグローバル世界だ。そうは言っても社会人生みの親のアイデンティティが溶けゆくのは寂しいものだ。いったい昨今の日本、現役も引退も中途退社も含め、どれだけの企業人が同じような思いを噛み締めていることだろう。  青いブランド名の下の社名を見つめながら、穏かで優しく、活気があったあの頃にノスタルジーを感じる。
青紫のライトアップが途端に諸行無常の流れに思えてしまった夢の如き秋の夜だった。

2011/11/06

M氏へ

「今頃どの辺りだろう」
M氏を想う時、私はいつも七つの海に想いを巡らす。
旅好きだった故人を偲ぶにはロマンがあって、想像が広がる。
遥かな海を航海中、だがメキシコ湾流に乗って意外と近くにいらっしゃるのかも・・・ダブリンでカモメの鳴き声を聞きながら、ふと思ったこともある。

「海に撒いて欲しい」
「何で?」と尋ねる夫人に
「そりゃあ、気分が良いじゃないか。それに海なら世界中何処にでも行けるよ」生前M氏はこう答えたらしい。
初めから賛成だった訳ではない夫人だったが、海へ旅立ちの時には、ポルトガル旅行の思い出であったエンリケ航海王子の帆船を手作りして見送ったということだった。なんて粋な船出だろう。氏がエンリケ王子の船の帆を張って、大海をぐんぐん進んで行く様子は想像しただけで楽しくなる。
氏の心意気に夫人の優しさ、私にとって永遠のベストカップルである。

 私が実際M氏にお会いしたのは一度きり、フランクフルト空港で日本への便を待っていた時だった。
ふとした事から会話が弾み、何故だか住所を交換し、そして手紙を書くようになった。
「又、お手紙ください。貴女の手紙は味が良くて楽しい」という褒め言葉にすっかり気を良くしてしまったのが正直なところだ。旅行好きという共通点以外、お互いのことは何も知らなかったが、だから思ったままを素直に書けた。そしてそれを夫人と共に読んでくださり、面白いと感じてもらえたと分かると、無性に嬉しかった。いつの日か大好きなアルザスを案内したいなぁ・・・だがM氏の旅立ちは早すぎた。今年で7年になる。それでも今、氏の存在は過去のものではない。航海中なのだ。
世界中何処にでも行けるから、世界中何処にいてもお見通しとなる、そんな気がしている。

今年始めのことだ。久しぶりに声を聞いた夫人から、いきなりブログを勧められた。ちょうど私はアルザスで、自分の日本語に不安を感じ始めた頃だった。1年以上全く日本語を使わない生活をしていると、たまに日本へ電話をした時、言葉がスムーズに出てこなくなる。ブログは日本語の良いリハビリにもなるなと、思い切ってやってみることにした。アルザスについて、とにかく手紙を書くように書いてみよう。そうだ、あの頃のように・・・。始めてみると、自分でも不思議なくらい次々に書きたいことが浮かんできた。「その調子、次も楽しみにしてますからね」夫人の支えは大きな原動力だった。単調になり始めていたアルザスでの生活が、活き活きと輝きを復活した。写真も撮りたい。毎日が急に忙しく、楽しくてたまらなくなった。その上ブログのお蔭で、気になりつつご無沙汰していた方とやりとりが出来たり、新しい友達が出来たり、嬉しいハプニングも起こった。日本に帰国しても日本語がスルスル問題なく出てきた。

先日何年もぶりに夫人と再会し、博多の街を案内することが出来た。M氏の妹君とは待望の初対面だったが、不思議と‘初めて’な気が全然しなかった。
「それにしても女同士、よーしゃべっとる。」
全てお見通しのM氏とはいえ、ここまでとは想定外だったかもしれない。
生憎の雨も「より良い情緒」に変えてしまう天性の旅上手な夫人と妹君、案内するつもりがいつの間にか、私自身がすっかり楽しんでしまっていた。何を見ても楽しい学生時代の旅行のようなエキサイティング感さえ漂っていて、これぞ旅上手のエスプリなのかもしれない。

最後の夜、博多の街は灯明ウォッチングの催しで彩られていた。東長寺本堂、間近でみる山鹿踊りの幻想的な灯篭の中、私は静かに手を合わせ、この不思議な縁に心から感謝した。

2011/09/07

リスペクト

日本がまだ世界第二位の経済大国で、日本語を学ぶことが流行にもなっていた頃のことだ。それほど昔の話ではない。

私はロンドンで、日本語教師養成の学校に通っていた。日本語教師になるために必要な文法から言語学、音声学、教授法などを学ぶ。卒業前には30時間もの実習が続いた。20名ばかりのクラスの中で3人グループを毎回編成し、それぞれ1時間の授業プログラムを立てて教材を準備し、1人20分ごとに連携プレイで教壇に立つ、というものだった。
日本語を習う生徒役は一般公募で集められた。生徒ボランディアだが、無料で日本語の授業が受けられるというので人気があった。昼間にもかかわらず、性別、年齢、国籍の違う10人ほどの生徒が集った。ロンドンはコスモポリタンな都市だから、英国人だけではない。職業も学生や主婦、年金受給者と様々で、教師やピアニスト、ちょうど昼休みだからとオフィスを抜け出して来るビジネスマンの姿もあった。
日本語教師志望の私達はこの実習に真剣に取組んでいた。グループごとの作業に熱くなり、実習の前日は夜10時過ぎまで学校に残って教材作り、なんてことも珍しくなかった。だがそんなにがんばっても、実際は予想通りにはいかないのが常だった。初級、中級のクラス分けはあるが、生徒の理解レベルは様々だ。言語は違っても、「英語」を習得してロンドンに住んでいる外国人の方が日本語についても理解が早い。多言語を学ぶ必要が薄い英国人は不利となる。
またピアニストの男性の耳と記憶力がよく、1、2度のリピートで完璧な発音を習得していくのには驚かされた。彼に言わせれば、言語も「音楽」らしい。才能だと思う。
教える側の私たちは次第に、のみ込みの遅い数人をマークするようになった。今日の課題をこの数人に理解させることが出来れば、実習は「成功」となるからだ。どうやったら分かってもらえるだろう?試行錯誤が続いた。
マークされた一人にトムさんという英国人男性がいた。大きな青い目をした人で、英国人にしてはさほど背が高くなく、ビール腹が目立ち始めた30代後半の愛嬌ある人だった。授業で私達が何かしようとする度に戸惑ってばかりだった。授業で使えるのは日本語のみ。簡単な事でも英語では許されない。それでも一生懸命な姿に、何とか理解して欲しいとこちらにも熱が入る。もどかしくなることもあったが、みんなトムさんに親しみを持って接したつもりだった。一度も冷たい態度を取ったことはない。

ある日、懇親会ということで、みんなでパブに行く機会があった。授業ではないから英語と日本語、思い思いに両方が飛び交う。たまたま私はトムさんの近くの席になった。日頃はたどたどしいトムさんだが、パブでの彼は普通の英国人、英語だと話も弾む。そんな彼がはっきりとした英語で話し始めた。「僕はね、人より日本語の上達が遅くて、たどたどしいのは良く分かってる。きっと言語習得に向いてないんだろうね。でもね、クラスを出れば一人前のイギリス人なんだよ。仕事を持って、妻や子供もいる。幼児じゃないんだ。君たちはみんな親切で良い先生だと思う。ただね、日本語が出来ないってだけで、幼児扱いをするのは良くないんじゃないかと思うんだ。日本ではそれが普通なのかい?個人としてのリスペクト/尊重はしっかりするべきなんじゃないかな。人生においては僕の方が君達のほとんどよりずっと大人なんだよ。」最後はイギリス人特有のウィット交じりだった。

「もーッ。トムさーん、いいですかァ、もう一度聞いてくださいねェ。これとあれ、どちらですかァ?」
「ソーです。正解です。トムさん、よく出来ましたネー。ハーイ、では次にいきますヨォー。」
丁寧語は使っているものの、言い方そのものは幼児に話すのと同じ調子。親しみが深くなるにつれ、その調子は強くなるばかりだった。私達教える側のそんな態度は私自身も気付いていただけに、はっきり言われと、すっかり恥ずかしくなってしまった。私たちに悪意がないことは彼も充分承知している。だが、だからと言ってそれで良い訳ではない。
それ以来、トムさんの言葉はそのまま私の中で大きな教訓となった。何かを教えるという時だけでなく、人と接する時には気をつけなければならないと今も思っている。懇切丁寧と幼児扱いをすることは決してイコールではない。フランスではマダム、ムッシューをつけて、リスペクト/尊重は常に形に表される。それを欠いてしまえば、養護施設の車椅子に乗った、動きのままならない年老いたマダムからでも一喝されて当たり前。初めてそれを目撃した時は驚いたが、御尤もなことである。

今、人材育成支援事業のパソコンスクールに通っている。久しぶりに学生を味わいながら、私はトムさんの言葉を思い出さずにはいられない。が、日本の場合、先生の前になると子供になりきってしまう大人もいるようだ。パソコンの技術そのもの以上に難しさを感じる毎日だ。

2011/08/20

ダブリン 魚物語

もう何年も前になるが、アイルランドのダブリンに滞在していた。ちょうど今頃の季節だった。7、8月とはいえアイルランドの夏は涼しい。梅雨はないが、年中雨の多い国なので日本と同じくらいの湿気がある。緑だけがやたらと濃かった。同じヨーロッパでも、カラリと青空の多いアルザスから来ると別世界だった。
だから面白い。アルザスには海がないがダブリンにはある。
毎朝カゴメの泣き声で目覚める度、微かに微かに一瞬感じる潮の香りに心が弾んだ。

そんなある日のこと、玄関のベルが鳴って扉を開けると大家のH氏がにっこり立っていた。H氏はダークブラウンの目をしたジョージ・クルーニーのような美男、だがそんな彼には似合わない無造作な新聞包を手にしている。
「ちょっといいかな」キッチンへ直行するとテーブルの上でその「無造作な新聞包」を広げた。
中から現れたのははち切れんばかりにピチピチしたTrout/鱒だった。
「釣りに行った帰りなんだ。すごいだろ」
「デカイ。こんなのが釣れるの!」
「今日はラッキーだった。60センチあるんだよ。計ったんだ。」
得意げなH氏は少年のようで微笑ましかった。クールな人かと思っていたのに、獲物を誰かに自慢したかったってわけですね。
「あげるよ」
「えっ?」言葉を失ってしまった。吃驚して止まった脳を必死で動かし、断りの言葉を捜した。
「そんな、折角釣った、こんな立派な魚を、いただくわけにはいかないわ。」
「いいんだ。家には料理する人いないし、夕方は約束があるから。」そう言えばH氏は離婚調停中だった。
「釣れたってだけで大満足さ。オーブンで1時間ぐらい焼けばいいよ」
私の表情が不安気に見えたのだろうか。彼はウィンクしながらそう言うと、新聞紙の真ん中にごろんと横たわる鱒を置き去りにして、さっさと帰ってしまった。
どうしよう・・・・。

魚の美味しい国から来た私だが、こんな大きな魚を相手にしたことなんかない。魚は切り身しか・・・こんなことなら日本で母からもっと料理を習っておくべきだった。が、後悔したときは遅し。目の前には息絶えた鱒がどうにでもしてくれと横たわっている。大きすぎて冷蔵庫にも入らない。やるしかないのか。
ナイフを手にした。日本では信じられないかもしれないが、キッチンに包丁はない。ましてや出刃包丁なんてしゃれたものなどあるわけがない。あるのは小さな万能キッチンナイフのみ。

まず魚の表面にナイフの刃を滑らせ、ウロコを取った。透明なウロコがパチパチ飛び散ったが、キッチンの汚れなんか気にしている場合じゃない。次に内臓。魚と目を合わせないようにぐぐっとひと思い、腹に短いナイフを差し込んだ。ぐにゅっ。新鮮なだけに弾力性があるが、正直グロテスク。手を止めてしまったらやり通す自信がない。無我夢中だった。塩でもんで、ブチ切りをして、天板にのせ、オーブンに入れた時にはぐったりしてしまった。
魚の生くささが、キッチンのみならず、部屋中に満ちていた。食欲ないなぁ。
ところがである。30分を過ぎた頃から焼き魚の香ばしい香りが漂い始めた。とお腹もそれに合わせて空いてくる。急速にグロテスクな格闘は過去となっていった。オーブンの中、目の前に見えるのはぶちぶち油の跳ねるピンク色のおいしそうな焼き魚。
出来上がりがどれだけ美味だったかなんて言うまでもない。醤油と、ちょうどあったレモンをかけて(カボスでないのは少々残念だったが)、ご飯といっしょに完璧な夕食だった。

魚の美味しい国から来た民族ということを実感した出来事である。魚をさばくなんてやったことはなかったのに出来た。グロテスクなんて言っておきながら、美味しく平らげた。
我ながら目からウロコのダブリン体験だった。

2011/08/13

オーストリアへ ウィーン

ついに最終目的地、ウィーンに到着。アルプスや山間の村、古都も良いが、都会も良いなぁというのが正直な感想だった。甲乙なんてつけ難い。言い方を変えれば、それだけウィーンには都会としての美しさと魅力があるということだ。ロンドン、パリのように大きくはないが、音楽、芸術、歴史、食とあらゆる方面で、通の人々にも充分な刺激を与え得る上質なものが凝縮している。それでいて大都会の齷齪さがなくゆったりとして、その雰囲気が街に優雅さを与えているように思える。これもハプスブルグ家栄光のシンボルということだろうか。

さてハプスブルグと言えば、「戦争は他家に任せておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と家訓にある通り、その栄華は16人の子供を産んだ女帝マリア・テレジアにも代表されるが、結婚政策にあった。マリア・テレジアの娘で、フランス最後の女王となったマリー・アントワネットについては日本でもよく知られている。また半世紀以上後になるが、本家本元オーストリア帝国では、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にドイツ公家から嫁いだ皇妃エリザベートが有名だ。古い映画になるが、ロミー・シュナイダー主演の「シシィ」がヨーロッパを一世風靡したこともあり、今でもシシィ(エリザベートの愛称)の人気は衰えることがないようだ。ハプスブルグ家から嫁いだマリー・アントワネットとハプスブルグ家に嫁いだエリザベート、どちらも次々と社交界の流行を創り出し、伝説の美貌を持つ女性で、当時も今も女性としての賞賛の対象だった。だが、「ヨーロッパ」をひとくくりにしてしまう日本人感覚からは理解しにくいが、他国から来た「よそ者」でもあった。
そのことに気付かされたのは、日本でフランス語の先生と話した時だ。彼は日本におけるマリー・アントワネットの人気が理解できないと言った。フランスにおいてはそれほど人気があるわけではないらしいのだ。はじめ私にはそれが理解できなかった。フランス最後の女王だというのに?だが彼曰く、彼女はオーストリア人であり、フランス人ではない。贅沢三昧をし過ぎ、フランス民衆の敵となった人物ではないか。確かにその後フランスでも、彼の言を思い出させられるような意見を聞いた事がある。マリー・アントワネット自身も一生ハプスブルグ家を強く意識し、それだけにフランスが冴えなく映ったりもしていたようだ。一方ドイツ公家から嫁いだエリザベートは厳格なハプスブルグ家にしっくり馴染むことが出来ず、孤独感を紛らわすべく、旅行ばかりをするようになる。皇帝の深い愛情にもかかわらず、幸せだったとは言い難い人生だったようだ。どちらも時代は違うが、「一人の人間としての幸福を求める」など考えすら及ばなかった時代の女性の宿命だったのだろうか。結婚にしろ、出産にしろ、それが国の行く末を左右するという重い使命を持ち、それでいて大きな時代の流れの前には無力でしかなかった。

政略結婚と言えば日本の歴史も例外ではない。日本が勢力を伸ばしていた時代、公家令嬢、浩という日本女性が満州国最後の皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁いだ。波乱に満ちた時代に翻弄された人生である。だが政略結婚でありながらも、お互い2人の間に芽生え、大切に育まれた普遍の夫婦愛に、私は感銘を受けずにはいられなかった。
ドイツにいた時のこと、時々行った中華料理のレストランで、オーナーの中国人マダムと中国のラストエンペラーについて話をする機会があった。私が弟溥傑のことに触れると、彼女はそうそうと首を縦に振り、「私、若い頃、夫妻に会ったことがあるの」と言い出した。
「ちょっと待ってて」レストランの上階にある自宅に戻って1枚の写真を持ってきた。
彼女は昔ドイツに移住する前、中国のホテルで働いていたらしく、そのホテルに溥傑夫妻が休暇で宿泊客として滞在したことがあり、その写真はスタッフの一人がいっしょに写ってもらえませんかと頼んで撮ったものらしい。老夫婦は若い制服姿のスタッフ達に囲まれ、朗らかに見えた。どんな人だったのかという私の好奇心に、彼女は何十年も前の鮮明な記憶を辿ってくれた。
溥傑の妻が日本人であることは当時の彼女も知っていたが、とても日本人とは思えない普通の中国人のようだったらしい。2人とも目立たないが感じがよく、スタッフにも親切で、写真の申し出も快く受けてくれたとか。何より2人の仲睦まじさが印象的だったと彼女は繰り返し言った。 

運命とは異なものだ。何をどうしたからどう転がって、どういうことになっていくのか誰にも分からない。個人の資質や努力とは関係ない大きな力に流されることも多々ある。運命を創っていけるほど人間は強く出来てはいないのではないか。最近ではそのようにも思える。ただ避けることの出来ない大きな波をどう捕らえ、向き合っていくか、結局その姿勢の足取りが人生というものなのかもしれない。
今も昔も、歴史上の大人物にとっても、唯の人にとっても、人生とは修行であることに変わりはないようだ。

2011/08/07

オーストリアへ リンツ

Linz/リンツはザルツブルクとウィーンの中間に位置するドナウ川沿いの商工業都市だ。表情豊かなアルプスの山景色の虜になってしまうと、都会が近づくにつれ、なだらかになっていく風景にがっかりしてしまう。またヨーロッパ中どの国でも言えることだが、工場が発達してしまった都市は、栄えた街であっても、どこか殺伐とした印象を受けてしまう。リンツもそんな街のひとつだった。
だがそれとは別に、この地で私達は期待以上の素敵な目的達成が出来た。そもそもなぜリンツに立ち寄ることにしたか、それはアルザス名物のTarte de Linz/タルト・ド・リンツの故郷だからだ。「リンツのお菓子」というこのタルトは、ドイツ語でLinzer Torte/リンツァートルテ、アーモンドの粉末と、シナモンやナツメグなどの香辛料を入れた生地に、ラズベリージャムをたっぷりはさんだ焼き菓子だ。アルザスではケーキ屋は勿論、ベーカリーでも良く見かける。店によって生地がソフトだったり、クッキーのようだったり、またラズベリージャムの食感にも違いがある。こんなに美味しい菓子だから、遠くオーストリアからドイツ、スイス、アルザスへ伝わったのだろうと想像できる。折角オーストリアを訪れるのなら、一度本場リンツでオリジナルのタルト・ド・リンツを食べてみたい、これが私達の目的だった。

さて車を降りて、早速メイン通りから探索を始めた。路面電車の行き交う通りの両側に、流石本場だ、あるあるリンツァートルテの看板。ウィンドー越しに綺麗な箱に詰められた丸いトルテが並んでいるのが見える。それはまるで、大宰府天満宮の参道に並ぶ梅ヶ枝餅屋のよう。大宰府といえば梅ヶ枝餅のごとく、リンツといえばタルトなのだろう。だが、私達の目的は土産品として買うのではなく、味わうことにある。裏通りに入ったほうが良いという直感に導かれ、通りを逸れてみた。暫らく当てもなく、だがアンテナはピンと張って歩いていくと、そのカフェは現れた。リンツに行ったらと描いていたそのままの、雰囲気あるカフェだった。

店を入ってすぐはベーカリーだった。手作りの美味しそうなパンが棚にずらりと並んでいる。ウィンドウの中には菓子パンやケーキ。目移りしそうなのを抑え、「リンツァートルテはありますか?」と尋ねると、「ありますよ。カフェは奥へどうぞ」女性が笑顔でカウンターの横手を指した。カフェはこじんまりした広さで、地元の老紳士が新聞を読みながら、ゆっくりコーヒーを飲んでいる。店の男性ともお馴染みのようだ。読み物は新聞だけではない。ドイツ語なのでさっぱりだが、それでも面白そうな写真集や歴史の本が並んでいて、インテリアの一部になっている。壁には古い地図や写真、何だか歴史を感じるカフェだ。運ばれてきた「リンツのお菓子」を堪能していると、それまで寛いでいた周りの客が、次々と会計を済ませ帰ってしまい、店はがらんと私達だけになってしまった。
「閉店時間ですか?」
「いやいやまだいいんだよ、ゆっくりして。旅行者?
何処から?」
店の男性のフレンドリーさに、思わず何のためにリンツに寄ったかの話をした。彼は急に職人的な面持ちで、
「リンツのリンツァートルテはどう?」
「遥々来た甲斐のある美味しさです。」
「それは良かった。実はうちの店はねぇ・・・・」
彼は彼の祖父が始めたこの店の3代目ということだった。オーストリアの歴史が好きで、壁に飾られた古い地図は彼のコレクション、ハプスブルグ家全盛期のヨーロッパ地図だった。「フランスのナポレオンもヨーロッパを制覇したけどね、」と気遣い充分ではあるが、いかに当時のオーストリア(ハプスブルグ)が力を持っていたか、その後現代に至ったかを、時々本に手を伸ばし、頁をめくって写真を見せながら話してくれた。こんな所では聞けない、だがここでしか聞けない興味深い話に、私達はタルトのことも時間もすっかり忘れて聞き入ってしまった。

最後に3代目主人が店の案内カードを記念にくれた。
「リンツに来たらまた寄ってよ。良い旅を」
「ありがとう」
店を出て初めて気付いたのだが、閉店時間はとっくに過ぎていて、ベーカリーでは既に掃除が終わっていた。
リンツでの「リンツのお菓子」の思い出だ。

2011/07/30

オーストリアへ ザルツブルク

子供の頃から憧れていた町、それがザルツブルグだ。それは1本の映画から始まる。
「サウンド・オブ・ミュージック」
母に連れられ、梅田の映画館まで見に行った時、私はまだ7歳だった。リバイバルにもかかわらず、映画館は立見が出るほどの観客だった。英語はもちろん字幕の字もよく読めない年だったが、解説は必要なかった。
私はすっかり映画の中に入り込み、トラップファミリーの子供達といっしょに、山の上の草原でドレミの歌を歌い、カーテンで作られたワンピースを着て、歌いながらザルツブルグの街を歩いていた。、映画が終わっても、すぐには現実に戻って来れなかった。
11歳の時、お小遣いで初めて買ったレコード(LP)は「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラック盤、何度も何度も、何度も聞いた。すっかり洋画好きになって、クラスメイトと2人、いつも洋画の話ばかりしていた。今のようにDVDやビデオがないから、映画を見たい時に見ることなんて出来ない。リバイバルで映画館に来るか、テレビで放映されるだろう「いつの日か」のチャンスを心待ちにするしかなかった。そうして見た映画は一つ一つ心に刻まれていった。

ザルツブルクは、私のような深い思い入れを抱く者の夢を裏切らない、いやそれ以上の町だった。シンボルである丘の上のホーエンザルツブルク城塞は内部の見所も多いが、塔の展望台から眺める町の景色にはうっとり時を忘れてしまう。
Salzburg/ザルツブルグ、「塩の城」という名の通り、岩塩鉱から産出される塩で栄えた町で、モーツァルトが生まれた地としても知られる。町の中心にある生家は見学することが出来、モーツァルトが使用した楽器や自筆の楽譜などが展示されている。

「サウンド・オブ・ミュージック」の話に戻るが、トラップ一家がナチスに反し、故郷オーストリアを亡命する前、合唱コンクールに出場する。そこで歌うのが「エーデルワイス」だ。最後には観客全員の大合唱となり、それはオーストリアの人々の愛国心の現れで、とても感動的なシーンだ。
映画「カサブランカ」でも同じく、モロッコ・カサブランカの酒場にいたフランス人が全員立ち上がり、ナチスを差置き「La marseillaise/ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)を歌うシーンがある。こちらも感動的。それで私はずっと「エーデルワイス」もオーストリアの国歌だと思っていたら、そう思っている人も少なくないらしいが、実は映画のために作られた1曲だったらしい。

Edelweiss, edelweiss,
every morning you greet me.
Small and white, clean and bright,
you look happy to meet me.
Blossom of snow, may you bloom and grow,
bloom and grow forever.
Edelweiss, edelweiss,
bless my homeland forever.



但しこの「高貴な白」という意味の高山植物エーデルワイスは、オーストリアの国花だそうだ。
国歌ならず国花だったという訳。何はともあれ可憐で気高い花であり、美しい曲である。

2011/07/23

オーストリアへ インスブルック

流石山国オーストリアだ。ブレーゲンツで難なく丈夫なテントを購入出来、もう1泊牧草キャンプをした後、私達はアルプスの山々に囲まれたInnsbruck/インスブルックに向かった。
車を下りてまず感じたのは空気が美味しいこと。
インスブルッグは15世紀末皇帝マクシミリアン1世の統治下で発展を遂げた、チロル州の州都である。旧市街にはゴシック様式の建物が続き、Erker/エルカーと呼ばれる出窓からは夏の花が鮮やか色合いを添えていた。
その合い間に見えるアルプスの連峰は太陽と共に表情を変える。洗練と自然が、独特な美の相乗効果をもたらしている古い都だ。

バーゼルに長年住む友人がいつも言っていた。インスブルッグはこの世で最も美しい街だ、と。
彼女はインスブルッグ出身だったから、私はずっと故郷びいきの言だろうと思っていたが、訪れてみて心から納得してしまった。街を流れるイン川も清らかな山川だ。インスブルックとは「イン川にかかる橋」という意味らしい。また近郊には、クリスタルで有名なスワロフスキーの本社がある。100年以上続く、オーストリアを代表するファミリーカンパニー。実はその友人のお兄さんがデザイナーとして長年勤めていたとかで、彼女の家にもスワロフスキーのクリスタルが沢山飾られていて、博物館のようねと言ったことがある。日本でも有名なブランドであることを知った彼女はそれが嬉しかったのか、ガラスケースから驚くほど小さなクリスタルのスワンを取り出し、プレゼントしてくれた。インスブルグとスワロフスキーは彼女の誇りだったようだ。それもあってか私の中で、クリスタルの輝きとインスブルグの街の気高い印象が重なり合う。
ゆっくり日曜日の旧市街を散策して、今日の宿、郊外のキャンプ場へ車を走らせた。

キャンプ場は岩山のふもとにあり、着いた途端すっかり魅了されてしまった私達は、切り立った景観が目前に迫りくる位置にテントを張った。山の天気は変わりやすい。テントを張り終わる頃、見る見る灰色の雲が広がり、大粒の雨が降り出した。ところが「プールになることはない」と得意になる暇もなく、今度は太陽が照ってきた。雨上がりのスキッとした空気に、太陽が反射する岩の頂が黄金色に輝き始めたのだ。
夜の星空も切迫感があった。満天の星に、口を開ければ流れ星が入ってきそうな感じだ。眠るのが惜しく感じられたが、横になるとあっという間に眠りに吸い込まれてしまった。

つづく

2011/07/17

オーストリアへ ブレーゲンツ

梅雨が明けて本格的な夏到来、気温は既に34度。
「ヨーロッパの夏はこんなに暑くないんでしょう」とよく言われるが、確かに日本と比べ湿気がないから過ごしやすくはあるが、フランスでも猛暑になった年がある。夏中雨が降らずに毎日40℃近く、病院は熱中症の患者で溢れ、死亡した一人暮らしの老齢者が続出した。南仏では山火事が広がり、フランス中大騒ぎだった。お蔭でCanicule/カニキュール、猛暑という単語を繰り返し聞くことになり、自然に覚えることが出来たが、とにかく暑い夏だった。

フランスの一般家庭ではエアコンを使わない。待ちに待った夏だから暑いのを楽しむ。一軒屋ではプールがなくても庭に長いすを出し、水着で日焼けしながらリラックス。食事も外のテーブルで、が多くなる。アパルトマンでもテラスでのビキニ姿をよく見かける。若くないから、スタイルがよくないから、なんて気持ちは存在しないようだ。南仏など暑さの厳しい地方では、午後の日差しの強い時間、日除け扉やシャッターを半分閉める。このように日光を遮っただけで石造りの家の中はひんやり涼しくなったりするのが通常だ。
ところがその年は異常だった。夜も熱帯夜が続いた。扇風機でもあればと買いに行ったが、既にどの家電販売店でも売り切れで、入荷は未定。
「もう我慢できない」その足でスポーツ店に行き、小さなテントを買った。
7月と8月、フランスはバカンスシーズンだ。誰もがそのことしか頭にない。そうだ私達も避暑でバカンスに出かけよう。思い立ったが吉日、車に最低の着替えと歯ブラシ、テント、懐中電灯を積み込み、出発したのだった。勿論車にもエアコンはないが、窓を開け、心地よい風をいっぱいに受けると猛暑なんて何のその、ヨーロッパでの初キャンプに鼻唄が飛び出す。
目指すは東のエデン。スイスのバーゼル、チューリーッヒを抜けてオーストリアへ向かった。

スイス、オーストリアとの国境が近づくと、大きな湖が左手に広がってくる。ライン川流域で最大の面積をもつボーデン湖で、スイス、ドイツ、オーストリアの国境に接している湖だ。
オーストリアに入ってすぐのBregenz/ブレーゲンツはバカンスを過ごすのにぴったりの湖畔の町だ。夏の湖上オペラは有名らしく、その日も間近に迫った公演の大掛かりな設営の真っ最中だった。
湖畔にも大きなキャンプ場があったが、私達は郊外の牧場に隣接したキャンプ場に向かった。

キャンプというと、私は山登りを描くが、ヨーロッパのキャンプはキャンピングカーでが多い。だからキャンプ場での陣地は車込が通常だ。空いている好きなところに車を止めて、その近くにテントを張る。リュックに担いで物を運ぶわけではないので、あらゆる物が運べる。テーブルに椅子、テーブルクロス、クッション、ラジオ、テレビと、リビングをそのままキャンプ場に移したような様子も少なくない。自然に入り込み、日常と違う最小の道具で工夫をこらしたキャンプが好きな私としては、何だか物足りない気もするが、考え方を変えればそれはそれで便利である。
食事も面倒であればレストランに行けばよいし、買物もわざわざ用意していく必要はなく、キャンプ場近くのスーパーで買える。自然に触れるという点では同じである。
第一日目は涼しい牧草の中、心行くまで星空を満喫して、深い眠りについた。

翌朝、朝露で澄んだ空気を思う存分吸い込み、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。いつもと違う朝、それだけでコーヒーの味も格別だ。気分爽快、隣に陣取った車のナンバーが同じエリアナンバーだったことから、自然と世間話が始まる。アルザスのミュルーズ近郊から来た家族だった。暫らくして、父親が言い出した。
「そのテント、何処で買ったの?」郊外どこにでもある大型スポーツ店の名前を言った。
「やっぱり。それね、気をつけたほうがいいよ。ほら、上の境目に穴が開いてるだろう。雨が降るとここから浸み込んで、テントがプールになるんだ。それがさ、見る見るうちに水がたまってって、大変だったことがあるんだから。」
「テントがプール!そりゃ昨日雨が降らなくて良かった。テントで泳ぐってのもねぇ。道理でおもちゃほどの値段だった訳だ。」
冷汗をかきながらだが、朝からみんなで大笑い。柵の向こうの牛達も吃驚しているようだった。こうなると山登りキャンプでなくて助かった。小さな町だけれど、スポーツ店が何処かにあるだろう。早速雨漏りのしないテントを求めて、ブレーゲンツの町散策に出かけることにした。

つづく・・・・

2011/07/11

傘の旅

梅雨が明けたのに、ではあるが傘の話。
先日父が電車に傘を忘れて下車してしまったらしい。
「娘からもらった傘ですけん」ということで慌てて問い合わせたところ、JRが親切に探してくれ、終点の駅に届けられていることが分かり、着払いで送ってくれたそうだ。母からその話を聞いて、私は首をかしげた。「傘とかあげたことあったっけ」「ほら、英吉利からのお土産で買って来てくれた傘よ。私にも。」
そう言えば傘に凝った時期があったなぁ。

どの本だかすっかり忘れたが、英国紳士の持つ傘について書かれた、上品でおしゃれな英吉利のエッセイを読んだことがある。英国紳士の持つ傘とは、ステッキになり得るほど細くキュッとたためるものだと書いてあったのを記憶している。そしてそんな英国紳士愛用の伝統ある傘ブランドがT.Fox & Companyだと紹介されていた。
ミーハーな私は英吉利に旅行したらお土産は傘だなと決め、そして実行した。海外旅行をしたことがある方にはよく理解いただけると思うが、傘は土産に適しない。折畳み傘ならまだしも、スーツケースに入らないからずっと手荷物として持ち歩かなければならない。重くはなくても邪魔になる。ちなみに折畳み傘なんて英国紳士には相応しくないものらしい。だから伝統ある英国製傘は通常以上に長い傘。それを2本、しっかり持って帰ってきたのだから、我ながら「よくやった」と感心する以上にあきれてしまう。しかも折角の英国製高級傘、父も母も「もったいない」と言って長い間使わなかった。
だが傘土産はまだ続く。イタリアからド派手な雨傘を自分用に(これは好評だったが、かなり使って壊れてしまった)。ベルギーからはブリュッセルレースの日傘を母に持ち帰った(これは恥ずかしいと今だに新品状態)。久々に広げてみると、その時の旅行の思い出までも蘇ってきて楽しくなる。かれこれ15年以上昔のことだ。

その後、私は旅行そのものが高じてロンドンに住むこととなる。そこで発見したことだが、何と実際のイギリス人は傘を持ち歩かない。なぜか?イギリスの天気は気まぐれだから、雨が降ってもどこかの軒先でちょっと待てば小ぶりになる、という訳だ。ましてや伝統高級傘なんて持ち歩いてたら、ちょっとした隙に盗られてしまう。実際私も安物なのに、唯一の傘を傘置きで盗まれ、その後は傘なして通した。

イギリスに住んでいながら、傘も持たずに過ごして帰国した娘に、今度は母が旅行土産として、JAL機内販売の折畳み傘を買ってきてくれた。今だにお気に入りで使っている。小さくて軽く、何より柄が世界地図なのだ。これならどんな雨の日でも楽しく歩ける。いやいや例え雨でも何処かに行きたくなる。そしてその後、この傘は描かれたデザインのごとく、私と共にあちらこちらと世界を旅することになったのだった。

英国製ならず、日本製も優れものですヨ。

2011/07/06

クジラとイルカ

「映画"The Cove" 見た?ショッキング。是非とも見るべし」
アイルランド人の友人からメッセージが入った時、私はまだフランスにいた。近くにレンタルビデオなんてないし、でもどんな映画かと気になってネットで調べてみた。

The Cove/ザ・コーヴは和歌山県鯨の町とも言われる太地町で、毎年23000頭ものイルカが捕獲され、一部は世界中の水族館に売られ、多くは食用にされているという事実を暴いた映画で、2010年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞し、全世界が注目したドキュメンタリー映画、ということだった。

海外にいると、必ずどこかで話題になってしまう日本の捕鯨問題、その度肩身の狭い思いをするのは避けられない。個人としてはそれも日本の文化だと思っている。しかも日本人は鯨に感謝し、無駄なく全部食べてきた。豚や牛は食べるのが当たり前で鯨は悪いという理論には納得できない。だが一方で、絶滅する危機にある動物を食べなくても生きていける世の中だから、止めるべきなら止めてもいいのではとも思う。だから国際間で話し合い、調整し、ルールに沿ってやっているではないか、と意見を聞かれたら遠慮なくそう言っている。私自身も子供の頃普通に塩鯨を食べてきたし、お酒は飲めないがオバイケが好きだったりもした手前、「可愛そう」なだけの偽善は言いたくない。

そうしたところある日、フランスのTVで、過激な海洋環境保護団体として知られるシーシェパードについてのドキュメンタリーがあった。反捕鯨については日本だけでなく、ノルウェーやアイスランドといった北欧諸国もターゲットになっていて、過激な妨害を仕掛けられるので捕鯨船にとっては頭を痛める存在だが、リーダーのPaul Watson/ポール・ワトソンがインタビューの中で言った。目の前で子供や女性が暴力を受けていたら見過ごせるか?理屈がどうのこうのよりまず助けようとするのが人間だろう?反捕鯨の闘いはそれと同じだ、と。使命感に燃え、確固とした信念と正義を貫く強さを感じる人だった。闘いが似合う人でもあると思ってしまった。

日本に帰国して、今度は偶然にも2本のNHKの特集番組を見た。「クジラといきる」と「小さな町の国際紛争~太地町とブルーム市の苦悩~」だ。
映画による波紋で、太地町の捕鯨に携わる人々の暮らしが脅かされている現実と、その苦悩、それは遠くオーストラリアの姉妹都市であるブルーム市にまで及び、太地町からの移民が必死で発展させた町という歴史を持つにも関わらず、日本人先祖の墓石が荒らされ、日本との絆が引き裂かれようとしている。またそれに立ち向かう日系子孫達の奮闘も描かれていた。

どちらも憤りと遣る瀬無さでいっぱいになってしまうドキュメンタリーだった。日本にも言分がある。そのまま英語版にして世界に発信出来ないものかとさえ思った。太地町の捕鯨に携わる人々は、高級スーツを着て、高層ビルオフィスに座り、パソコンをクリックするだけで、何十億、何百億を瞬時に稼ぐマネーゲームの人達とは違う。自らの命をかけて労と共に、真面目に仕事に励んできた人達だ。生命を奪う仕事であるだけに、生命の尊さと、生きることへの感謝を日本の文化からしっかり受け継いでいる。そんな太地町の人々に10万円の札束を振りかざし、金をやるから捕鯨を止めろと叫ぶアクティビストこそ、いったい「生きる」ということを理解しているのだろうか。こうなったら映画を見ずにはいられない。

こうして意気込んで観た「The Cove/ザ・コーヴ」だったが、実は観終って、益々何が何だか分からなくなってしまった。TVのドキュメンタリーはフランスTVもNHKも捕鯨に関して。ところが
映画そのものはイルカを虐殺するなと言っている。そして私は日本人ではあるが、日本人がイルカを食べる民族だったとは全く知らない。イルカはクジラ類だが、一般的にはクジラとイルカはいっしょではない。いったい何が何を目的とし、どうなっているのか分からない。

映画ではイルカ肉が鯨肉として売られていると言っていた。だがイルカ肉には水銀が含まれるため、危険であるらしい。また日本政府が公表している情報は都合のよい嘘であり、都合の悪い事は隠蔽しているとも。FUKUSHIMAの件もあり、確かにあり得る事かと思える。だがそうだからと言って正義のストーリー、アクティビストが危険なイルカ虐殺の町に乗り込み、最先端技術を使ってクールにスマートにイルカ虐殺を密撮影するというアメリカ大衆風タッチの映画を全面信じる気にもなれない。そういう意味でこの映画は、世界を扇動し、日本叩きが目的だとしたら(監督は決してそうではないと言っていた)大成功だと言えるが、当事者を始め日本人を説得させるには不十分で、逆効果でさえあったのではないかというのが感想だ。

それにしても物事は視点や立場によって、こんなにもストーリーが変わってしまうものなのか。
文化や思想、慣習が違えば仕方ないことなのかもしれないが、それだけにマスメディアやマルチメディアからの1つの情報で判断することは出来ない、判断してはいけないと強く感じた。
現代社会はインターネットの発達や衛星放送の発達であらゆる情報が氾濫している。公の情報の信頼性は揺らいでいるが、マスメディアといっても視聴率や利益とは切っても切れないのだから、嘘はつかないまでも事実の都合の良い部分だけを強調し、大衆好みに色付けして報道してしまうこともあるだろう。インターネットの情報も、真偽の程は個々の判断に委ねられ、責任の所在はない。
結局のところ、自分の体験でない情報は信頼し切ってしまうな、便利な世の中になったとは言っても、やはり座っているだけで世界を知ることは出来ない、ということかもしれない。

2011/06/28

博多祇園山笠

日本の梅雨はうっとうしい。雨の中に咲く紫陽花に趣はあるが、毎日じとじと、洗濯物が乾かない。おまけに気温が上がると体もだるく重くなってしまう。だが博多の街では毎年この時期になると、久留米絣の長法被姿を見かけるようになり、お祭り気分の高揚を感じる。山笠を舁く博多の男達の気合が入る季節なのだ。

博多祇園山笠は全国的にも有名な博多の祭りだが、どんたくがみんなで参加して楽しむ市民の祭りであるのに比べ、こちらは博多区の櫛田神社に祀られた素戔嗚尊/すさのおのみことに奉納される祇園祭のひとつだ。氏子たちが伝統的に行ってきた町内行事でもある。6月からは行事の連続で、特にTVでも放映される7月15日夜明けのクライマックス、タイムを競う「追い山」は一番の見どころだ。起源については諸説があるらしいが、通説では鎌倉時代の1241年、博多で疫病が流行した際、臨済宗・承天寺の開祖、聖一国師が、疫病除去のため施餓鬼棚/せきがだなに乗って祈祷水をまいたのが発祥とされている。当時は神仏混淆の時代、これが災厄除去の祇園信仰と結びつき、山笠神事となっていったらしい。
かつては京都の祇園祭のように、豊臣秀吉が行った「大公町割」による流れ/グループごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていた。ところが江戸時代の1687年、休憩中の土居流が恵比寿流に追い越される「事件」が起こり、越されてたまるかと抜きつ抜かれつの競い合いになったのが評判となった。これが「追い山」に発展したそうだ。博多もんの気質だろうか。だがこの「追い山」はとにかく迫力がある。
午前4時59分に一番山笠がスタートする。櫛田神社境内の清道を回って奉納し、境内で「博多祝いめでた」を歌う(一番山笠のみ、1分)。その後、「オイサッ、オイサッ」という掛声と共に多数の男たちが交代を繰り返しながら山を舁き回る。二番山笠からは5分おきに出発。「追い山」は櫛田神社から須崎町の廻り止めまで博多の町約5キロのコース、それぞれのタイムを競うレースである。コースは何処も観光客や地元の人々で熱気をおび、沿道のあちこちから勢い水が次々に舁き手に浴びせられる。狭い通りなどでは見物客にかかることもあるが、それも祭りの興。最後の最後まで勢いは増すばかりだ。
一方、山笠が全て清道を回り終えると、櫛田神社境内では喜多流の能楽師により紋付き袴の姿で「鎮めの能」が厳かに舞われる。また各流れでは追い山の後、「祝いめでた」で1本締めをして、直ちに舁き山を解体してしまう。この潔さがまた良い。これも博多もんの気質だろうか。
そして博多は梅雨明けを迎えるのが恒例だ。

私が始めて「追い山」を見に行ったのは既にOLになってからのことだった。夜明けの祭りの興奮後、7月15日が平日だとそのまま朝の出勤となる。充分間に合う時間ではあるが、前日仕事が終わって、そのままオールナイトになる博多の街に繰り出し、生まれて始めてカンテツ/完全徹夜をしてのことだった。
午後になって眠気が襲い始めた頃、「ヤギちゃん、眠いやろう」課長がなぜか近づいてきて、私の顔を覗き込むように言った。「いいえ、眠くなんかないですよ。」しらっと答えてみたが、
「そうか?眠いはずやでぇ、昨日徹夜であそんどったもんなぁ。」一気に目が覚めた。な・なぜ課長がそんなことを知っているのだ?彼は私の驚きを見て取ると、満足げにニンマリして言った。「ヤギちゃん、TVにでとったでー。今朝のニュースで見てん。飾り山の前におったやろう。」
そうだ、思い出した。午前3時ごろ、友人達と飾り山の前で喋って時間をつぶしていたら、テレビ局のカメラが来て、山笠は初めてですかとインタビューされたのだった。1瞬だったからすっかり忘れていたのに、よりにもよって課長が見ていたとは。「元気やなぁ、徹夜して山笠見に行くなんて。今日は定時で帰りや。」
オレには何でもお見通しさ。遠ざかる課長の後肩がそう言っているかのように上がっていた。

クールに仕事をしているつもりなのに、何かしらいつも尻尾を見られてしまうOL時代の、梅雨明けの日の思い出であった。