日本の梅雨はうっとうしい。雨の中に咲く紫陽花に趣はあるが、毎日じとじと、洗濯物が乾かない。おまけに気温が上がると体もだるく重くなってしまう。だが博多の街では毎年この時期になると、久留米絣の長法被姿を見かけるようになり、お祭り気分の高揚を感じる。山笠を舁く博多の男達の気合が入る季節なのだ。
博多祇園山笠は全国的にも有名な博多の祭りだが、どんたくがみんなで参加して楽しむ市民の祭りであるのに比べ、こちらは博多区の櫛田神社に祀られた素戔嗚尊/すさのおのみことに奉納される祇園祭のひとつだ。氏子たちが伝統的に行ってきた町内行事でもある。6月からは行事の連続で、特にTVでも放映される7月15日夜明けのクライマックス、タイムを競う「追い山」は一番の見どころだ。起源については諸説があるらしいが、通説では鎌倉時代の1241年、博多で疫病が流行した際、臨済宗・承天寺の開祖、聖一国師が、疫病除去のため施餓鬼棚/せきがだなに乗って祈祷水をまいたのが発祥とされている。当時は神仏混淆の時代、これが災厄除去の祇園信仰と結びつき、山笠神事となっていったらしい。
かつては京都の祇園祭のように、豊臣秀吉が行った「大公町割」による流れ/グループごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていた。ところが江戸時代の1687年、休憩中の土居流が恵比寿流に追い越される「事件」が起こり、越されてたまるかと抜きつ抜かれつの競い合いになったのが評判となった。これが「追い山」に発展したそうだ。博多もんの気質だろうか。だがこの「追い山」はとにかく迫力がある。
午前4時59分に一番山笠がスタートする。櫛田神社境内の清道を回って奉納し、境内で「博多祝いめでた」を歌う(一番山笠のみ、1分)。その後、「オイサッ、オイサッ」という掛声と共に多数の男たちが交代を繰り返しながら山を舁き回る。二番山笠からは5分おきに出発。「追い山」は櫛田神社から須崎町の廻り止めまで博多の町約5キロのコース、それぞれのタイムを競うレースである。コースは何処も観光客や地元の人々で熱気をおび、沿道のあちこちから勢い水が次々に舁き手に浴びせられる。狭い通りなどでは見物客にかかることもあるが、それも祭りの興。最後の最後まで勢いは増すばかりだ。
一方、山笠が全て清道を回り終えると、櫛田神社境内では喜多流の能楽師により紋付き袴の姿で「鎮めの能」が厳かに舞われる。また各流れでは追い山の後、「祝いめでた」で1本締めをして、直ちに舁き山を解体してしまう。この潔さがまた良い。これも博多もんの気質だろうか。
そして博多は梅雨明けを迎えるのが恒例だ。
私が始めて「追い山」を見に行ったのは既にOLになってからのことだった。夜明けの祭りの興奮後、7月15日が平日だとそのまま朝の出勤となる。充分間に合う時間ではあるが、前日仕事が終わって、そのままオールナイトになる博多の街に繰り出し、生まれて始めてカンテツ/完全徹夜をしてのことだった。
午後になって眠気が襲い始めた頃、「ヤギちゃん、眠いやろう」課長がなぜか近づいてきて、私の顔を覗き込むように言った。「いいえ、眠くなんかないですよ。」しらっと答えてみたが、
「そうか?眠いはずやでぇ、昨日徹夜であそんどったもんなぁ。」一気に目が覚めた。な・なぜ課長がそんなことを知っているのだ?彼は私の驚きを見て取ると、満足げにニンマリして言った。「ヤギちゃん、TVにでとったでー。今朝のニュースで見てん。飾り山の前におったやろう。」
そうだ、思い出した。午前3時ごろ、友人達と飾り山の前で喋って時間をつぶしていたら、テレビ局のカメラが来て、山笠は初めてですかとインタビューされたのだった。1瞬だったからすっかり忘れていたのに、よりにもよって課長が見ていたとは。「元気やなぁ、徹夜して山笠見に行くなんて。今日は定時で帰りや。」
オレには何でもお見通しさ。遠ざかる課長の後肩がそう言っているかのように上がっていた。
クールに仕事をしているつもりなのに、何かしらいつも尻尾を見られてしまうOL時代の、梅雨明けの日の思い出であった。
2011/06/28
2011/06/22
マルタの花・・・ポリジ
NHKのBSプレミアム「猫のしっぽ カエルの手」という番組の「京都 大原 ベニシアの手作り暮らし」では、大原に住むイギリス人ベニシアさんの自然溢れる暮らしが紹介される。日本の伝統・文化を大切にしながら、日本と西洋とが絶妙に融合した手作り暮らしだ。実際にやるとなると大変な労が必要とされる暮らしだと思うが、見ている分にはリラックス出来て楽しい。
先日その中でベニシアさんが、庭に咲いたハーブの青い花「ポリジ」はそのままサラダに入れて食べれる花だと紹介した。
「マルタの花だ!」懐かしく、心が一気にアルザスに飛んだ。「C'est vraiment gentil /ご親切にありがとう。すぐ近くよ。重くはないのだけど、今日は暑すぎるわね」
世間話をしながらゆっくり数分で彼女の家の前まで来た。ご近所さんだった。門の前で引き返そうとすると、庭に野菜を植えているからくれると言う。
いやいやそんなつもりはないと断ったら、声をかけられたのがとても嬉しかったからだと言い、私が日本人だと分かると更に、昔日本に旅行したことがあると、その時の旅の話をあれこれ話しはじめた。先ほどの老女は何処へやら、とても85歳とは思えない、小さな体にエネルギー溢れる、会話もシャープでウィットにとんだマルタというアルザシアンに変わっていた。
それから私達の近所づきあいが始まった。彼女は裏庭に広い畑を作っていて、行く度に色々な新鮮野菜や旬のベリー、ハーブなどを気前良く取ってくれた。どれもがスーパーの野菜など比べ物にもならないほど味があり、ズッキーニも生のままサラダにして美味しく食べれることを教えてもらった。タンポポについて聞いたのも彼女だ。野菜や果物、植物、動物に詳しく、世界中を旅したことのあるユニークな女性で、定年まで公務員として働いた職業婦人でもあった。実は60年連れ添ったというご主人が10ヶ月前に亡くなり、気落ちしていた時期だったそうだが、気丈に明るく、いつも忙しく体を動かしていた。
ある日、そんな彼女の野菜畑に小さな星の形をした青い花が咲いているのを見つけた。茎の部分がふさふさとしていて可憐な花、何気なく見ていたら彼女が行った。
「好き?それも持って行きなさい」
「可愛いけど、花は切らずに庭に咲いているのを眺める方がのいい」
「何言ってんの。食べるのよ」
「食べる?」
「知らないの?サラダに入れてそのまま食べれるのよ。ストレスに効くし、体にいいものがいっぱい。美味しいから。」そう言いながら手際よく摘み取ってくれた。
食べるにはもったいないほど可愛い青い星の花、サラダにする前に写真を撮ったものの、教えてもらった名前を忘れてしまい、書き留めておけばよかったと日本に帰国して後悔していたところだった。
ベニシアさんのお蔭でその名は「ポリジ」、フランス語ではBourrache/ブラッシュだと分かった。
ムラサキ科の一年草、地中海沿岸原産のハーブで、カルシウムやリン、ミネラル成分を含み、古くから薬草としても利用されてきたらしい。別名を瑠璃萵苣(るりちしゃ)、スターフラワーともいう。
紫に近い青い花、マルタの少女のような青い目を思い出す。私の中ですっかり「マルタの花」になっていた花だった。
2011/06/12
若杉山の見える風景
| 若杉山山頂からの眺め |
「若杉山が近くに見えるから、後で雨になるよ」
「若杉山の頂が見えてきた。天気になるね」と地元の人々には馴染み深い山で、かの菅原道真を祀った太宰府天満宮の後ろに聳える宝満山まで、三郡縦走といって一日がかりになるが、縦走もできる。
この若杉山、日本各地の多くの山々と同じく、唯の「山」ではない。山頂に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀った太祖宮/たいそぐうがある。神功皇后(西暦170-269年)が朝鮮半島出兵の為祈願し、その時手折ってお守りとした神木を、凱旋の後、香椎宮に植えた。今の香椎の綾杉だ。その綾杉を神明加護の御礼に再び枝分けして太祖宮の山に植えたことから「分け杉山」と言われるようになり、それが訛って「若杉山」となったのが名前の由来らしい。
また後年、弘法大使/空海(774年-835年)が真言密教を悟り、唐の国(中国)より帰国して訪れたことでも知られ、山頂から少し下ったところには弘法大使を祀った「若杉奥の院」があり、篠栗霊場八十八ヶ所巡りの番外札所となっている。
こうして若杉山は古来より山岳信仰や真言密教の聖地として、修行の場ともされてきた。そのため伝説やそれにまつわる見所も多い。その一つが挟み岩だ。
先日遥々、ロンドン滞在時からの友人が家族で会いに来てくれた。彼女もヨーロッパ、中東各国に住んだことのある移動人で実家は東京、九州は初めてという。近場を案内・・・と思いついたのが若杉山だった。前回会ったときは3歳だった彼女の息子は13歳になり、背丈は既に私以上、それでもエンジェルのような笑顔は変わらず、挟み岩の話をすると目を輝かせて面白がった。
「岩が閉じてきて挟まれてしまうのよ。怖い?」
「怖いなぁ。僕通れるかなぁ。大丈夫だと思うけどなぁ。どうだろう。」
よし、行ってみようということになった。若杉山はふもとからの登山もできるが、奥の院遥拝所まで車で登ることもできる。それでも山頂への最後の詰めはかなり急な坂を登らなければならない。山に慣れない友人家族にとってはコクだったようだが、それでも杉の香りに満ちた瑞々しい緑の中何とか登り切り、太祖宮を参拝した後、いよいよ挟み岩へ向かった。
「こんなの通れない。無理だ。助けて!」
「大丈夫、そこに足をつけて、今度はこっち。鎖をしっかり握って。」
パニックと興奮、恐れと達成感、予想以上に楽しみながら無事に皆通過でき、若杉奥の院へたどり着いた。奥の院には弘法大使の独鈷の一撃で岩間から湧き出したとされる霊水「独鈷水/どっこすい」がある。癖のない軟らかい味で、そのまま飲むことができる。これまでに一度も枯れたことがないらしく、この霊水で高熱が下がったことがあると傍にいたお遍路さんが教えてくれた。ちょうど水分を補給したいところでの有難い水、思わず「もう一杯」とお代わりしたくなる。
次に遥拝所の駐車場に戻って更に走ること数分、隣の米ノ山山頂に着く。米ノ山はパラグライダーの発進基地としても知られ、見晴らしが良く、山あいの鳴淵ダムや駕与丁池をはじめ、その向こうには福岡市街や博多湾を眺めることができる。夜景のスポットにもなっているらしく、夜は若者カップル車が多いらしい。が、昼はお弁当を広げるのに最高の場所である。
ゆっくり絶景パノラマを眺めながらおにぎりを食べた後、今度は山中にある「大和の大杉」を見に行った。若杉山には、「大和の大杉」「トウダの二又スギ」「七又杉」「ジャレ杉」「綾杉」など樹齢500年以上の巨大杉があり、森林浴をしながら大杉群を巡る遊歩道が整備されている。その中でも「大和の大杉」は樹高40メートル、幹周16m15cm、根元近くから5本の幹に分かれている為、5本の杉のように見えるが、実は1本という巨大杉。地元の人が知っていたとはいえ、平成13年に確認されるまで人知れず、山中でひっそりと長い長い年月を過ごしてきた。いったい何を見て何を感じてきたのだろう。若杉山が古代から霊峰とされてきた由縁か、木の精に問いかけたくなるような神秘を感じる大木だった。
自然すぎて日本にいると当たり前のようだが、神と仏が闘うことなく同じ山に共存できたのは、結局は山に宿る自然の不思議の力とそれに対する人々の尊敬の念からではないだろうか。
それを源とすれば神も仏も仲間でしかない。そんなことを考えながら、森林セラピーを満喫し、心地よい疲れを感じながらも体の奥にエネルギーが充電されたような気分で帰路についた。
天気も良く、友人家族も大満足で、すっかり若杉ファンになったようだった。
2011/05/27
Rose Garden/薔薇園
「空」は土地それぞれ、季節や時間、天気によって色が変化するが、
結局は限りないひと続きの宇宙である。
哲学などではない。タイトルを変えずにブログを続ける為の単なるこじつけ。空の色はいろいろとすると、アルザスに限らず、日本やこれまで訪れた国のことなども気ままに書いていけるなぁと思ったのだ。
実家の傍に町立の図書館がある。ちょっとした小川の流れる庭もあって、小さな子供連れや、犬の散歩途中のホッと一息出来る場所になっているようだ。小川沿いには手入れの行き届いた薔薇が植えてあり、この季節は色とりどり華やか、風に乗った甘い香りに思わず足を止めたくなる。
薔薇といえば、初めてのロンドン旅行で訪れた、Regent's Park/リージェンツ・パーク内にあるQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンを思い出す。6月の初め、薔薇が満開の季節だった。
今年は英国ウイリアム王子の結婚が大きな話題になったが、ちょうどその年、私達のロンドン滞在中には、日本で徳仁皇太子の結婚式が行われた。婚礼当日が国民の休日となったため、プラス3日の年休と土日を合わせ、6日連休で飛べたロンドンだったのだ。当時の会社では、海外旅行の為の連続年休などまだ一般的ではなかったから、3日の年休の承諾を得るのに、辞表覚悟の意気込みだった。意外にも快く了承され、「世界を見るのは良いことだ。ロンドンか。くれぐれもスリには気をつけるように。」と気難しい上司に言われたときには、狐につままれたような心地だった。
グローバルという言葉が飛び交い、日本はバブル景気の余韻でまだ機嫌が良い頃だった。
会社の別の部署にいた同期と学生時代からの友人と女3人、楽しくて楽しくて興奮しっぱなしの旅だった。リージェンツ・パークの芝生に座ってサンドイッチのランチ。そんなことが夢だった。自由に街をぶらぶらしている自分達に酔いしれた。ロンドンは街の中心のあちらこちらに公園があり緑が豊富だから、どこか雰囲気もあくせくしていなくて、初めてでも馴染みやすい。事前にガイドブックを読みあさり、行きたいリストをそれぞれ出し合って計画を立てたのだが、その中のひとつがQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンだった。
まるでこのガーデンを訪れるために狙って日本から来たかのように最高の見頃で、公園中、花壇も垣根もベンチの上にかかったアーチも薔薇で埋め尽くされていた。イギリスらしい曇り空の下、薔薇の花もヨーロッパの女性のごとく、円熟の美を醸し出しているように思えた。その中で私達はまだまだ薔薇より団子、若く青く、ピカピカしていて元気が良かった。
さて、メアリー女王のバラ園にも負けないバラ園が、アルザスにはないが、ここ粕屋町の駕与丁公園にある。あらゆる種類の薔薇2300株が池を望む高台に集められていて見事だ。細やかな手入れはボランティアの手によるものらしい。立体感のある場所なので、「薔薇に埋もれる」感じが味わえる。住民でありながら知らなかったが、薔薇は粕屋町の町花でもあるらしい。
アルザスはあまりに遠いので簡単に言えなかったが、粕屋町なら日本国内、一度お越しになりませんか?
結局は限りないひと続きの宇宙である。
哲学などではない。タイトルを変えずにブログを続ける為の単なるこじつけ。空の色はいろいろとすると、アルザスに限らず、日本やこれまで訪れた国のことなども気ままに書いていけるなぁと思ったのだ。
実家の傍に町立の図書館がある。ちょっとした小川の流れる庭もあって、小さな子供連れや、犬の散歩途中のホッと一息出来る場所になっているようだ。小川沿いには手入れの行き届いた薔薇が植えてあり、この季節は色とりどり華やか、風に乗った甘い香りに思わず足を止めたくなる。
薔薇といえば、初めてのロンドン旅行で訪れた、Regent's Park/リージェンツ・パーク内にあるQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンを思い出す。6月の初め、薔薇が満開の季節だった。
今年は英国ウイリアム王子の結婚が大きな話題になったが、ちょうどその年、私達のロンドン滞在中には、日本で徳仁皇太子の結婚式が行われた。婚礼当日が国民の休日となったため、プラス3日の年休と土日を合わせ、6日連休で飛べたロンドンだったのだ。当時の会社では、海外旅行の為の連続年休などまだ一般的ではなかったから、3日の年休の承諾を得るのに、辞表覚悟の意気込みだった。意外にも快く了承され、「世界を見るのは良いことだ。ロンドンか。くれぐれもスリには気をつけるように。」と気難しい上司に言われたときには、狐につままれたような心地だった。
グローバルという言葉が飛び交い、日本はバブル景気の余韻でまだ機嫌が良い頃だった。
会社の別の部署にいた同期と学生時代からの友人と女3人、楽しくて楽しくて興奮しっぱなしの旅だった。リージェンツ・パークの芝生に座ってサンドイッチのランチ。そんなことが夢だった。自由に街をぶらぶらしている自分達に酔いしれた。ロンドンは街の中心のあちらこちらに公園があり緑が豊富だから、どこか雰囲気もあくせくしていなくて、初めてでも馴染みやすい。事前にガイドブックを読みあさり、行きたいリストをそれぞれ出し合って計画を立てたのだが、その中のひとつがQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンだった。
まるでこのガーデンを訪れるために狙って日本から来たかのように最高の見頃で、公園中、花壇も垣根もベンチの上にかかったアーチも薔薇で埋め尽くされていた。イギリスらしい曇り空の下、薔薇の花もヨーロッパの女性のごとく、円熟の美を醸し出しているように思えた。その中で私達はまだまだ薔薇より団子、若く青く、ピカピカしていて元気が良かった。
さて、メアリー女王のバラ園にも負けないバラ園が、アルザスにはないが、ここ粕屋町の駕与丁公園にある。あらゆる種類の薔薇2300株が池を望む高台に集められていて見事だ。細やかな手入れはボランティアの手によるものらしい。立体感のある場所なので、「薔薇に埋もれる」感じが味わえる。住民でありながら知らなかったが、薔薇は粕屋町の町花でもあるらしい。
アルザスはあまりに遠いので簡単に言えなかったが、粕屋町なら日本国内、一度お越しになりませんか?
2011/05/21
さようならアルザス、またいつの日か
アルザスを離れ、日本に帰国した。
初夏の最も美しい季節だというのに残念だが、欲ばかり言ってはいられない。
もっと早くブログを始めていればよかった、アルザスについてもっともっと色々なことを書きたかったと後悔しても仕方ない。
32時間かけての移動、流石アルザス━福岡は遠い。
だが一方で世界が小さくなっていることにも気付いた。インターネットのお蔭だ。今も私は福岡の実家でアルザスのラジオを聞きながらPCに向かっている。今回の移動にもこのネットが大活躍だった。
これまで海外でフライトチケットを取る場合、各国の日系旅行会社を探して電話で予約をし、出向くか、遠い場合は振込みをして送ってもらうかをしていた。日本行きの場合はそれが一番安い方法でもあった。ところが今回ネットで色々調べてみると、フランスの旅行会社や航空会社のHPから日系旅行会社と同等、もしくはよりお得にチケットがネット購入出来るのだ。振込み、郵送という手間や時間もかからない。PCとクレジットカードとプリンターがあれば、明日のフライトチケットでも購入できるという便利さなのだ。それで今回私は一番お得だったカタール航空、PARIS━関空 ドーハ経由 片道456ユーロを使ってみた。中東の航空会社大丈夫なの?なんて心配することなかれ。カタール航空は10年ほどの新しい会社だが、飛行機はどれも新しく、食事、サービスも申し分なかった。何より乗り継ぎの待ち時間がなく効率的。今目覚しく伸びている航空会社だ。
「乗客はそれほど多くなさそうね。私も2席分ゆっくり出来るから有難いわ」と言うと「なんだフランス語分かるの」とホッとしたように言った。ドーハ経由で私と同じく大阪に行くらしい。
「この状況下、多くの人が日本から去ってるというのに何のために日本に向かうの?」
「でも君もじゃない」
白い歯むき出し茶目っ気たっぷりの笑顔に、私は彼が日本中チェルノブイリだと思ってしまっている一部のフランス人とは違うことを察した。ダンスのオーデションを受けに行くらしい。バレエダンサーには見えない。尋ねるとヒップホップだと答えだ。受かったら日本に住むことになるそうだ。
「親や友達は心配したけどね。放射能は大阪まで来ないから大丈夫だと思うんだ。地震は・・・その時はその時さ」
「関西には弟や友達が住んでるけど、大丈夫よ。あなたの勇気、日本人として嬉しいわ。オーデション受かるといいわね。Bonne chance!/幸運を祈ってるわ」
「Merci./ありがとう」
彼は嬉しそうににっこりすると、空き席を見つけて移動していった。私もゆっくりとリラックス、ミュルーズから3時間半のTGV/フランスの新幹線移動の後でもあり、目を閉じると離陸を待たずして眠りについてしまった。
初夏の最も美しい季節だというのに残念だが、欲ばかり言ってはいられない。
もっと早くブログを始めていればよかった、アルザスについてもっともっと色々なことを書きたかったと後悔しても仕方ない。
32時間かけての移動、流石アルザス━福岡は遠い。
だが一方で世界が小さくなっていることにも気付いた。インターネットのお蔭だ。今も私は福岡の実家でアルザスのラジオを聞きながらPCに向かっている。今回の移動にもこのネットが大活躍だった。
これまで海外でフライトチケットを取る場合、各国の日系旅行会社を探して電話で予約をし、出向くか、遠い場合は振込みをして送ってもらうかをしていた。日本行きの場合はそれが一番安い方法でもあった。ところが今回ネットで色々調べてみると、フランスの旅行会社や航空会社のHPから日系旅行会社と同等、もしくはよりお得にチケットがネット購入出来るのだ。振込み、郵送という手間や時間もかからない。PCとクレジットカードとプリンターがあれば、明日のフライトチケットでも購入できるという便利さなのだ。それで今回私は一番お得だったカタール航空、PARIS━関空 ドーハ経由 片道456ユーロを使ってみた。中東の航空会社大丈夫なの?なんて心配することなかれ。カタール航空は10年ほどの新しい会社だが、飛行機はどれも新しく、食事、サービスも申し分なかった。何より乗り継ぎの待ち時間がなく効率的。今目覚しく伸びている航空会社だ。
「乗客はそれほど多くなさそうね。私も2席分ゆっくり出来るから有難いわ」と言うと「なんだフランス語分かるの」とホッとしたように言った。ドーハ経由で私と同じく大阪に行くらしい。
「この状況下、多くの人が日本から去ってるというのに何のために日本に向かうの?」
「でも君もじゃない」
白い歯むき出し茶目っ気たっぷりの笑顔に、私は彼が日本中チェルノブイリだと思ってしまっている一部のフランス人とは違うことを察した。ダンスのオーデションを受けに行くらしい。バレエダンサーには見えない。尋ねるとヒップホップだと答えだ。受かったら日本に住むことになるそうだ。
「親や友達は心配したけどね。放射能は大阪まで来ないから大丈夫だと思うんだ。地震は・・・その時はその時さ」
「関西には弟や友達が住んでるけど、大丈夫よ。あなたの勇気、日本人として嬉しいわ。オーデション受かるといいわね。Bonne chance!/幸運を祈ってるわ」
「Merci./ありがとう」
彼は嬉しそうににっこりすると、空き席を見つけて移動していった。私もゆっくりとリラックス、ミュルーズから3時間半のTGV/フランスの新幹線移動の後でもあり、目を閉じると離陸を待たずして眠りについてしまった。
2011/05/16
アルザス料理
アルザス料理と言えば、まず最初に出てくるのはChoucroute/シュークルートだろう。ドイツ語でSauerkraut/ザワークラフトといい、ドイツ料理でもある。意味は「すっぱいキャベツ」。乳酸発酵により酸っぱくなったキャベツの塩漬けで、ビタミンCが豊富。酸っぱいが酢は使われていない。 通常レストランでは
La Choucroute Garnie /シュークルート・ガルニと言って、この「すっぱいキャベツ」の上にソーセージやベーコン、ポテトなどが豪快に乗って出て来る。果実味の強いアスザスワインやビールとよく合う。
キャベツを繊切りにし、塩、白ワイン、香辛料と共にかめに入れて漬けるというシンプルな方法だが、ワインや香辛料の違いにより、各家庭やレストラン独特の味になるようだ。と、ここまで書いておきながらだが、私はアルザスに来て長い間、シュークルートを食べたことがなかった。酸っぱさが苦手で、ソーセージやベーコンもシンプルに蒸し焼きしてあるだけ、ソースがかかっているわけでもないし、アルザスにはもっと美味しい料理が沢山ある。
ある日、ムッシュー・シュラフのレストランで日替わりランチを頼んだら、その日はシュークルートだった。初体験にはもってこいのレストラン、運ばれてきた皿を見ていつものことながら吃驚。日替わりランチだからと手抜きはない。山盛りの温かいすっぱいキャベツに白いソーセージ、黒いソーセージ、サラミ、ベーコン、ハムが気前良く盛ってある。こんなに一人では食べれない・・・ところが今度は我が胃に吃驚。キャベツの軟らかい酸味のお蔭で、するすると重い肉の塊が吸い込まれるように入っていくのだ。ムタード(西洋からし)の辛さがこれまた良く合う。結局平らげてしまい、アルザス料理と言えばシュークルートと言われる所以が、何だか分かるような気がしたのだった。
さて、私のお気に入りアルザス料理はFleichschnacka/フライシュナーカという料理だ。
ハーブや香辛料を入れた肉のミンチを生パスタでロールし、輪切りにしてフライパンで焼き、牛の髄でとったスープにつけたもの。
サラダが付け合せになる。
一度友人宅でフライシュナーカの手料理をご馳走になったことがある。アルザスを離れる前のことで、友人が郷土料理をと腕によりをかけてくれたのだった。同じフライシュナーカでもミンチに入れる野菜やハーブ、香辛料によって家庭それぞれに伝統の味があるそうだ。今でも忘れられないほど美味しかった。
彼女の父親は2年前にこの世を去ってしまったが、長年Boulangerie/パン屋を営んでいたらしく、引退して80歳近くになってもタルトやクッキーを作るのが好きで、良くいただいた。厳しい時代のアルザスを生き抜いた世代だが、いつも優しいジョークで周りを和ませてくれる人だった。
彼女がその日デザートに出してくれたForêt Noir/フォレ・ノア-ルの美しさ、美味しさはこれも格別で、流石ロベールの娘さん、こんなに美味しい「黒い森」は初めてと褒めちぎったら、彼女もうれしそうに笑って、もう一切れいかがと勧めてくれた。
フランスでは仲良くなると、家庭へ食事に招待される機会がよくあるが、それぞれの家庭の味、地方の味と共に、もてなしの心と楽しい会話がいつも食事を更に美味しく彩ってくれ、レストランでの食事とはまた違う味わいの時が皆で楽しめる。
La Choucroute Garnie /シュークルート・ガルニと言って、この「すっぱいキャベツ」の上にソーセージやベーコン、ポテトなどが豪快に乗って出て来る。果実味の強いアスザスワインやビールとよく合う。
キャベツを繊切りにし、塩、白ワイン、香辛料と共にかめに入れて漬けるというシンプルな方法だが、ワインや香辛料の違いにより、各家庭やレストラン独特の味になるようだ。と、ここまで書いておきながらだが、私はアルザスに来て長い間、シュークルートを食べたことがなかった。酸っぱさが苦手で、ソーセージやベーコンもシンプルに蒸し焼きしてあるだけ、ソースがかかっているわけでもないし、アルザスにはもっと美味しい料理が沢山ある。
![]() |
| シュークルート 例 |
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| フライシュナーカ 例 |
ハーブや香辛料を入れた肉のミンチを生パスタでロールし、輪切りにしてフライパンで焼き、牛の髄でとったスープにつけたもの。
サラダが付け合せになる。
一度友人宅でフライシュナーカの手料理をご馳走になったことがある。アルザスを離れる前のことで、友人が郷土料理をと腕によりをかけてくれたのだった。同じフライシュナーカでもミンチに入れる野菜やハーブ、香辛料によって家庭それぞれに伝統の味があるそうだ。今でも忘れられないほど美味しかった。
彼女の父親は2年前にこの世を去ってしまったが、長年Boulangerie/パン屋を営んでいたらしく、引退して80歳近くになってもタルトやクッキーを作るのが好きで、良くいただいた。厳しい時代のアルザスを生き抜いた世代だが、いつも優しいジョークで周りを和ませてくれる人だった。
彼女がその日デザートに出してくれたForêt Noir/フォレ・ノア-ルの美しさ、美味しさはこれも格別で、流石ロベールの娘さん、こんなに美味しい「黒い森」は初めてと褒めちぎったら、彼女もうれしそうに笑って、もう一切れいかがと勧めてくれた。
フランスでは仲良くなると、家庭へ食事に招待される機会がよくあるが、それぞれの家庭の味、地方の味と共に、もてなしの心と楽しい会話がいつも食事を更に美味しく彩ってくれ、レストランでの食事とはまた違う味わいの時が皆で楽しめる。
2011/05/11
パリVSアルザスのレストラン
「そうねぇ、美味しいって言えば私は時々Ritz/リッツに行くわ。味はなかなかよ。」
幸いなことに私達4人とも、当時はお菓子のリッツクラッカーしか知らなかった。
「リッツって、どうやって行ったら良いのでしょう?」
「4人なら、ホテルからタクシーが便利よ。運転手なら誰でも知ってるから簡単よ。」
美味しくて、簡単に行けるならそこにしようと全員一致、夕食はリッツへ行くことにした。
頭の中ではパリのビストロ、狭いテーブルの間を長いエプロン姿のギャルソンがお盆を掲げて颯爽と歩いてた。タクシーが高級ホテルの前に止まると、戸惑った私達は確認のため、
「レストランのリッツなんですけど~」運転手はここだよとブスッと言った。
来たからには、と4人で勇気を出してレストランに入った。「ご予約は?」勿論ない。
だが時間が早かったため、テーブルをつくってくれた。目を見張るような豪華な内装。
スゴーイこれぞパリ。だが困ったのはメニューを見たときだ。最低のプチコースが当時の計算で約1万円だったのを覚えている。まだクレジットカードは持ち歩かない時代のこと、まず4人テーブルの下でこそこそ、持ち現金フランを確認しあった。良かった。何とかプチコースと水なら4人分オーダーできる。皿洗いをせずに帰れると思うとほっとして、途端に楽しくウキウキになった。
料理に何が出てきたかは覚えていない。ただ、どれもとても美味しかったこと、ワインでなく水にもかかわらず、食事中給仕が二コニコと良いタイミングに来てくれて、各グラスに少しずつ注いでくれたのを覚えている。「来たぞ来たぞ日本人の若い女の子、最近パリに増えたよなぁ」と思われていただろうが、見下した素振りは全くなかった。自然で上品なサービスは今だにいい思い出になっている。トイレも広くて豪華。興奮して写真を取りまくり、4人ともすっかり「リッツ」のファンになった。シャネルが晩年住んでいた、パリでも伝統ある超高級ホテルだと知ったのは、帰ってきてからのことである。今から思えば、気取った意地悪な現地のガイドさんだった訳だが、その意地悪が私達には通じず、お蔭でまたとない楽しい時が過ごせたのだから、今はその意地悪に感謝している。
さて次は、パリのリッツにも負けないアルザスのレストランを1つ紹介しよう。
その名は「Metzgerstuwa」。残念ながらこのアルザス語の発音、何度聞いても分からない。一般にはオーナーの名前、ムッシューSchluraff/シュラフのレストランと言っている。Mulhouse/ミュルーズとColmar/コルマールの中間にあるSoultz/ソゥルツという村にある。横は肉屋さんで同じ経営だから、レストランが美味しく値段もリーズナブルなのが納得出来る。レストラン内は部屋が複雑でいくつもに分かれている。空席情況により案内されるが、螺旋階段を登ったり、部屋を横切って奥の階段から3階へ案内されたり、時には調理場を通り抜けたりもするから面白い。食べる前にキッチンの様子が見れるわけだ。それだけにとても清潔で、調理人も多く皆忙しそうだが、いつもにこやかに「ボンソワール!」
料理はアルザス郷土料理でどれも美味しくボリュームがある。最近1/2サイズができたが、それで普通の1人前ぐらい。食事の前のアミューズと最後に出てくるアルザス特産、アルコールの強い果実酒シャナップはレストランのおもてなしだ。時々体重200キロのムッシュー・シュラフが各テーブルを挨拶に回って来る。「こんばんは、食事楽しんでくれてるかい?足りなかったら遠慮しないで言ってね。お代わりあるから。」優しい目をした気さくな人で、大きな体はいつも機敏に動いている。ブタのコレクターでもあり、レストランのあちこちにブタの絵画や置物などのコレクションが飾られている。実はこのムッシュー・シュラフ、レストラン以外にも長年の料理キャリアを活かした色々な活動をしていて、全国版TVにも何度も出演しているそうだ。大きな体と人懐っこいキャラクターはどこでも人気者間違いなしだ。
最近ではインターネットやガイドブックのお蔭で日本でもアルザスのレストラン情報が得られるが、未だ日本では知られていない「Metzgerstuwa」だ。
最後にフランス語ではあるが写真と雰囲気だけでも楽しめるので、素朴なHPを紹介する。
www.metzgerstuwa.fr
1)上の写真をクリックすると拡大されます。
2)右上のA la carte 、Les vinsをクリックするとメニューになります。
写真付でないのは残念。
3)英語版は・・・出てきません。
2011/05/05
La fille de coeur/心の娘
ある日TVを付けると、シラク前大統領の娘という明らかにアジア人の女性がトークショーで話していた。養女らしいが母国が中国なのか、ベトナムなのか、日本なのかその時は分からなかった。養女になるまでのいきさつも全く知らない。だが、政界の大者が血の繋がりのない、人種の違う娘を養女にする、ちょっと日本では考えられないことだと思い、それだけに興味を持った。
その後暫らくして、あのトークショーに出ていたシラク前大統領の養女、Anh-Daoが書いた半生記"La fille de coeur" /「心の娘」を偶然本屋で見つけた。同じアジア人として親しみが湧く。思わず買ってしまった。内容は分かりやすい文章で、波乱万丈な人生が明るく笑いを誘うタッチで描かれていた。実は彼女、ベトナム難民だったのだ。フムフム。ベトナムはフランスの旧植民地、要人の誰かの娘を養女として迎えた(助けた)のではないかと頁をめくっていったが、私の想像は全く外れた。
彼女は教育者の娘として裕福に、フランスに憧れを持つ母親の影響を受けながらのびのび育つが、ベトナム戦争を境に、それまでアメリカ寄りで成功してきた父親の絶望、北と南というだけでのベトナム国内での差別の中、就職難、貧困と苦労を強いられ、とうとう難民として運を天に任すべく、家族と別れボートに乗り込み祖国を脱出する決意をする。
これまでベトナム戦争のことについては、映画やドキュメンタリーなどで少しの知識はある。だが良く考えてみると、これらは皆アメリカから見たベトナム戦争でしかない。ベトナム人から見たベトナム戦争は実際この本が初めてだった。
ボートはベトナムを脱出したものの、マレーシアの難民キャンプで2年待たされる。その間にも病気、死、飢餓が難民仲間を襲うのを目の当たりにし、それでも彼女は生きる希望を強く持ち続け、やっとの思いでフランスに入国、シャルルドゴール空港で歓声をあげ喜び合う難民の中、何故か一人泣いてしまう。その時、当時パリ市長だったムッシュー・シラクが通りかかり、彼女を養女にと決めるのだ。彼女自身、ムッシュー・シラクを知っているわけではないし、翌日本当に現れるまで半信半疑だった。1979年彼女は21歳。それからはやさしいマダムとムッシュー・シラクの養女としてのおとぎ話となる。
一般にもフランスでは、養子縁組にアジアやアフリカ、人種の違う子供を迎えるケースが増えている。それはそれで色々と問題がないでもないが、迎えた両親は肌の色や目の色の違う赤ん坊に「わが子」としての限りない愛情を注いでいる。
年齢を重ねるたび、自分に流れる血なるものを強く感じる今日この頃だが、血だけではない限りない愛情というものがあるのも頷けるし、信じたい。地球の裏側から来た子をわが子として迎える。そうすることで人間を一人救えるのならこんなに素晴らしいことはないかもしれない。とは言え、さて自分に出来ますか?と問われると、情けないが正直ノーとしか言えない。だからでもある。肌の色の違う子供をもつカップルを見かける度、素直に敬服し、その家族の末永い幸せを心から願いたくなってしまうのだ。
その後暫らくして、あのトークショーに出ていたシラク前大統領の養女、Anh-Daoが書いた半生記"La fille de coeur" /「心の娘」を偶然本屋で見つけた。同じアジア人として親しみが湧く。思わず買ってしまった。内容は分かりやすい文章で、波乱万丈な人生が明るく笑いを誘うタッチで描かれていた。実は彼女、ベトナム難民だったのだ。フムフム。ベトナムはフランスの旧植民地、要人の誰かの娘を養女として迎えた(助けた)のではないかと頁をめくっていったが、私の想像は全く外れた。
彼女は教育者の娘として裕福に、フランスに憧れを持つ母親の影響を受けながらのびのび育つが、ベトナム戦争を境に、それまでアメリカ寄りで成功してきた父親の絶望、北と南というだけでのベトナム国内での差別の中、就職難、貧困と苦労を強いられ、とうとう難民として運を天に任すべく、家族と別れボートに乗り込み祖国を脱出する決意をする。
これまでベトナム戦争のことについては、映画やドキュメンタリーなどで少しの知識はある。だが良く考えてみると、これらは皆アメリカから見たベトナム戦争でしかない。ベトナム人から見たベトナム戦争は実際この本が初めてだった。
ボートはベトナムを脱出したものの、マレーシアの難民キャンプで2年待たされる。その間にも病気、死、飢餓が難民仲間を襲うのを目の当たりにし、それでも彼女は生きる希望を強く持ち続け、やっとの思いでフランスに入国、シャルルドゴール空港で歓声をあげ喜び合う難民の中、何故か一人泣いてしまう。その時、当時パリ市長だったムッシュー・シラクが通りかかり、彼女を養女にと決めるのだ。彼女自身、ムッシュー・シラクを知っているわけではないし、翌日本当に現れるまで半信半疑だった。1979年彼女は21歳。それからはやさしいマダムとムッシュー・シラクの養女としてのおとぎ話となる。
シラク前大統領の政治的な顔は別にして、養女を迎えた家族の父親としてのムッシュー・シラクと母親としてのマダム・シラクはとても温かく、思いやりの深い人だ。少し年下の実の娘達との分け隔てをしない心配りにも胸が熱くなる。また一言もフランス語を喋れない彼女への厳しい思いやり指導も心憎い。フランス人の大らかな人間愛だろうか。血にこだわる日本人の気質とは違う面があるように思う。
年齢を重ねるたび、自分に流れる血なるものを強く感じる今日この頃だが、血だけではない限りない愛情というものがあるのも頷けるし、信じたい。地球の裏側から来た子をわが子として迎える。そうすることで人間を一人救えるのならこんなに素晴らしいことはないかもしれない。とは言え、さて自分に出来ますか?と問われると、情けないが正直ノーとしか言えない。だからでもある。肌の色の違う子供をもつカップルを見かける度、素直に敬服し、その家族の末永い幸せを心から願いたくなってしまうのだ。
2011/05/01
Flaxlanden/フラクスランデン
家の前のとうもろこし畑を横切り、農道を永遠7kmほど歩き続けたところに隣町Flaxlanden/フラクスランデンがある。通常の散歩に往復14kmは歩く気になれないが、テン予防の犬の毛をいただいた農家がそこにあり、御礼を言いにハイキングに出かけた。
とうもろこし畑は土が耕されたものの、まだ種蒔はなされておらず見晴らしが良く、所々の畑は菜の花で一面黄色に輝いていた。農道は普通の車は立ち入れない。農作業の季節はトラクターや作業の人々の車が行き交うが、今はまだたまに散歩をしている人を遠くに見かけるぐらいだ。車の音も人の声もしない静けさが広がる畑の中、聞こえるのは小鳥のおしゃべりと、時々花から花へ飛び回る蜂の羽音のみ。何気なく道の脇に目をやると草の中に土筆が出ていた。ヨーロッパにはないと思っていたので、嬉しい発見だ。それでもフランスでは食す習慣がないようだ。雑草中の雑草の扱い。日本では独特の苦味が春一番の味として喜ばれているのに残念だ。
ようやくたどり着いたFlaxlandenは、お店といえばEpicerie/エピスリ(購買店)が一件あるだけの小さな村だった。家々の庭先には復活祭のデコレーションがなされていて、木の枝のあちらこちらにぶら下がったイースターエッグや木登りをしたうさぎのぬいぐるみがあどけなく、思わずシャッターを切りたくなってしまう。エコミュゼにあるような古いアルザス家屋にもこの村では人が住んでいる。
「横柱を見てごらん。年が刻まれてるから」
家の前で日向ぼっこをしていた住人が得意げに教えてくれた。1694年、300年以上前の家だった。
新築の家も村の外れに次々と建っていたが、そのどれもが色あせて見えるほど古い家屋には味があり、手入れは大変なのだろうが村の雰囲気に調和している。勿論ながらアルザス気質の手入れは完璧だ。
通りのあちらこちらには石造りの水槽があり、きれいな水が流れ出ている。こちらもよく見ると1763と石に彫ってあった。車を使うと行きつけのスーパーから10分ほどの、何ということはない小さな村、観光地などでは全くないが、畑の中を1時間歩き続けてたどり着くとこちらの気分のせいか、ワンダーランドに入り込んだような特別な気分になってしまう。
残念ながら農家の主は留守だったので、ありがとうのメッセージだけを残し、またのんびり菜の花畑の間の農道を帰路に向った。4月というのに初夏のように暑く、木陰に入るとほっとする午後、蜂の羽音が往路よりも大きくなっているように聞こえた。
2011/04/27
中世の山城 Haut-Koenigsbourg
今回はアルザスが自慢とする、中世の山城へご案内しよう。
ミュルーズからストラスブールに向って高速を走らせていくと、中間の街コルマールを過ぎてほどなく左のVosges側、山の頂きに中世の雰囲気漂う山城が見えてくる。これがHaut-Koenigsbourg/オー・クニグスブールだ。青空に映える城はポストカードそのまま文句なく美しいが、雨になりそうな灰色の空に聳える城も迫力があり、ドラマティックだ。夜はライトアップされるので、更に遠くまでその存在感を強くアピールしている。
Haut-Koenigsbourg/オー・クニグスブールは12世紀、Hohenstaufen/ホーエンシュタウフェン家によって建てられた「王の城」という名の城だ。1633年、30年戦争の戦いでスウェーデン人により焼失し、以後長い年月廃墟となっていた。1971年、普仏戦争でアルザスがドイツ領となった後、ドイツ最後の皇帝ウィルヘルム2世の命で1901年から1908年の年月をかけて修復され、綿密に中世の山城が再現されたのだった。その修復は見事である。当時のドイツ帝国の技術と財力、そして最後の皇帝ウィルヘルム2世と Bodo Ebhardt/建築家・考古学家の情熱の賜だろう。第2次世界大戦後アルザスがフランスになっても、1993年には歴史的建造物に指定され、今だアルザス観光の名所として多くの観光客の心を捉えている。
ミュルーズからストラスブールに向って高速を走らせていくと、中間の街コルマールを過ぎてほどなく左のVosges側、山の頂きに中世の雰囲気漂う山城が見えてくる。これがHaut-Koenigsbourg/オー・クニグスブールだ。青空に映える城はポストカードそのまま文句なく美しいが、雨になりそうな灰色の空に聳える城も迫力があり、ドラマティックだ。夜はライトアップされるので、更に遠くまでその存在感を強くアピールしている。
Haut-Koenigsbourg/オー・クニグスブールは12世紀、Hohenstaufen/ホーエンシュタウフェン家によって建てられた「王の城」という名の城だ。1633年、30年戦争の戦いでスウェーデン人により焼失し、以後長い年月廃墟となっていた。1971年、普仏戦争でアルザスがドイツ領となった後、ドイツ最後の皇帝ウィルヘルム2世の命で1901年から1908年の年月をかけて修復され、綿密に中世の山城が再現されたのだった。その修復は見事である。当時のドイツ帝国の技術と財力、そして最後の皇帝ウィルヘルム2世と Bodo Ebhardt/建築家・考古学家の情熱の賜だろう。第2次世界大戦後アルザスがフランスになっても、1993年には歴史的建造物に指定され、今だアルザス観光の名所として多くの観光客の心を捉えている。
城の中も各部屋細やかな復元が行き届いている。その様子はまるで先日まで当時の人々が生活していたかのようだ。中庭からふと窓辺を見ると、無邪気な中世の娘達が微笑みかけているような気さえしてしまう。寒さが厳しいアルザスの山の上、冬はさぞ寒いに違いないと思うだろうが、タイル張りの大きな暖炉はエアコンより、セントラルヒーティングよりも心地よい暖となる。暖炉は現在使われているわけではないが、前にドイツのレストランで同じタイル張りの暖炉を見たことがある。その心地よい暖は最新技術のかなわないものだった。
おとぎ話に入り込んだような気分で城の裏側を下って来たところ、ふと聳え立つ城の壁に所々穴があるのに気付いた。何のためだろう?水路ではない。空気穴だろうか。それにしては大きい。
ちょうど係員が通りかかったので尋ねてみた。
「トイレだよ。昔は小便も大便も真っ逆さまに落ちていったのさぁ。」
そして直接、植物の肥しになっていったというわけか。大胆な中世の設計だ。
最後に知られざる中世お城物語の現実を垣間見たようで楽しくなってしまった。
2011/04/21
犯人は極上の毛皮
桜の花が散り、眩しい新緑の葉が木々を覆い始めた。木の下に注ぐ太陽の光もいつの間にか柔らかな木漏れ日に変わっている。冬の間味気なかった芝生やクローバーも日々元気良く伸び始めた。
そうしたある朝、庭の芝生のあちこちが荒らされているのに気付いた。イノシシの仕業と同じく芝生を土ごとひっくり返されているのだが、イノシシほどダイナミックな大きさではなく、縦横3~4センチほどの大きさ。だがその数は半歩ごとに数え切れないほどで、棒を差し込んだような穴もある。いったい何者だ?
カラスか?鳥にしては穴が大きすぎる。モグラか?土の中から出てきたようすはない。狐か?狐は芝生を荒らさない。栗鼠か?栗鼠は可愛すぎる。鹿か?柵から入って来れない!
恐らくMartre/マルトルだろう。だが、そう言いながら隣人は皆あまり信じていない。マルトルは森の動物だよ。
犯人が分からないまま数日荒らされ続けた。どうも夜来るようだ。外灯をつけたままにしてみた。明りを避けるかもしれない。
さてMartre/マルトルとは?ふさふさしたしっぽが気になって電子辞書を引いてみた。日本語ではテン、イタチ科の動物だ。
森林に住み、よく木に登るとある。夜行性でネズミ、リス、小鳥、果実などを食べる。毛皮は最高級品とされているらしい。確かに薄暗い中でも毛並みの良さは印象的だった。木に登るということは、柵の隙間をふさいでも無駄ということか。そして何よりも気になったのは、最近、お馴染みリス君たちの姿を見なくなったことだ・・・やられてしまったのだろうか?
案の定、昨晩また入って来たようだ。満月の光に照らされて、芝生の下に何を探しているのか不可解だ。日本ではテンは化けるとも言われているらしい。
「狐七化け、狸八化け、貂(テン)九化け」
何かの化身かしらん?全く別の好奇心が湧いてくる。
何かと物騒がせな春である。
追加)農家の方に知恵をいただき、いただいた犬の毛を撒いてみたところ、来なくなった。
イノシシには人間の髪の毛、テンには犬の毛が効くようだ。
そうしたある朝、庭の芝生のあちこちが荒らされているのに気付いた。イノシシの仕業と同じく芝生を土ごとひっくり返されているのだが、イノシシほどダイナミックな大きさではなく、縦横3~4センチほどの大きさ。だがその数は半歩ごとに数え切れないほどで、棒を差し込んだような穴もある。いったい何者だ?
カラスか?鳥にしては穴が大きすぎる。モグラか?土の中から出てきたようすはない。狐か?狐は芝生を荒らさない。栗鼠か?栗鼠は可愛すぎる。鹿か?柵から入って来れない!
恐らくMartre/マルトルだろう。だが、そう言いながら隣人は皆あまり信じていない。マルトルは森の動物だよ。
| 犯人は誰だ? |
10時ごろ、ふとガラスドア越しに外を見ると5mほど先に動物が芝生を嗅ぎ回ってる。外灯の薄明かりではっきり見えないが猫より少し大きめ、犬より小さい。長いしっぽがふさふさしているようだ。鼻の部分が少し尖がっているようで「あらいぐまラスカル」を思い出した。
「でた~!」人間の気配に気付いたようだが、その動物は慌てる風でもなく、淡々と消え去った。
私の描写から、やはりマルトルだろうということになった。だが厄介な事に予防策がないそうだ。取りあえず柵の隙間を全て石や木で塞ぎ、イノシシ除けの髪の毛をばら撒いた。「でた~!」人間の気配に気付いたようだが、その動物は慌てる風でもなく、淡々と消え去った。
さてMartre/マルトルとは?ふさふさしたしっぽが気になって電子辞書を引いてみた。日本語ではテン、イタチ科の動物だ。
森林に住み、よく木に登るとある。夜行性でネズミ、リス、小鳥、果実などを食べる。毛皮は最高級品とされているらしい。確かに薄暗い中でも毛並みの良さは印象的だった。木に登るということは、柵の隙間をふさいでも無駄ということか。そして何よりも気になったのは、最近、お馴染みリス君たちの姿を見なくなったことだ・・・やられてしまったのだろうか?
案の定、昨晩また入って来たようだ。満月の光に照らされて、芝生の下に何を探しているのか不可解だ。日本ではテンは化けるとも言われているらしい。
「狐七化け、狸八化け、貂(テン)九化け」
何かの化身かしらん?全く別の好奇心が湧いてくる。
何かと物騒がせな春である。
追加)農家の方に知恵をいただき、いただいた犬の毛を撒いてみたところ、来なくなった。
イノシシには人間の髪の毛、テンには犬の毛が効くようだ。
2011/04/17
ベルリン会議とアフリカ
![]() |
| 1912年のアフリカ Wikipediaより |
ベルリン会議という国際会議が1884年11月から1885年2月にかけて、ドイツの首都で開催された。参加国はドイツ帝国、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、イタリア、オーストリア、オランダ、スペイン、デンマーク、スウェーデン、アメリカ合衆国、ロシア帝国、オスマン帝国の計14カ国。アフリカのコンゴ植民地化をめぐり、ベルギーとそれを支持するフランスに対し、ポルトガルとそれを支持するイギリスの対立の収拾が図られ、また「アフリカ分割」の原則が確認された。以降アフリカを植民地化する場合は、ベルリン協定調印諸国にその内容を通告し、会議で確認された原則を遵守するべしとなる。尤もらしいが、このアフリカ大陸に関する国際会議にアフリカからは一人も参加していない。参加国代表のほとんどは、アフリカに1歩も足を踏み入れたことがなく、アフリカ人は「黒い生き物」として、研究の対象としか見なされなかったらしい。結局ベルリン会議は列強国のアフリカ植民地化を更に進めることになり、1912年までにリベリア、エチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7国(スペイン、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、ポルトガル、ベルギー)によって分割支配されたのだった。
ちょうどチュニジアが自由の歓喜で沸き上がった頃、TVの特集番組で、私は初めてベルリン会議のことを知った。列強国とは何とも勝手な事をしてきたもんだなぁと思う。今回アフリカに連鎖して起こっている革命で、早速チュニジアからイタリア南部の島に大多数の難民が押し寄せ、イタリアをはじめヨーロッパ各国は冷や汗をかいている。ヨーロッパ諸国にとって移民難民の問題は年々深刻になるばかりだが、冷静に考えると因果応報かとも思えてしまう。アフリカだけではない。南北アメリカ、オーストラリア、アジア、中東、列強国は植民地を広げることで列強を保ってきたとも言える。ふと、開国を迫られ明治維新に突入していった日本に思いが走った。列強国にとって日本人はどう映っていたのだろうか。
1882年(明治15年)
伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパを訪問。
1884年(明治17年)
華族令を制定し、華族制度を整える。
1885年(明治18年)
太政官制を廃止し、内閣制を導入。
初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任。
新設された枢密院の議長にも就任。
また外務卿・井上馨による欧化政策で、欧米諸国との交渉を有利に運ぶため、風俗や生活様式の西洋化が進められる。1883年(明治16年)には日比谷に「鹿鳴館」が建設され、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれていた頃だ。
アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、列強国同士が牽制し合う中、アジアの一国、明らかに近代化に遅れを取った日本が外交を進めていくのは、今以上に大変だっただろうと思う。時の運もあったかもしれないが、よく植民地にされずにすんだなと思わずにはいられない。
その理由は色々あるようだが、実は日本と全く関係ないアフリカ分割が理由の一つでもあるようだ。列強国がアフリカ陣取りに忙しくなり、遠い島国、簡単でもなさそうな日本に手を回す余裕がなかったから、らしい。
井上馨は度々ヨーロッパを視察して、現地では日本人が「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという事実に気づいていた(事実、欧米での初期日本研究は文化人類学・民族学の範疇に属しており、自分たちとは違う人種として研究対象とされていたのである)。井上と伊藤博文らは日本人がこうした扱いから免れるようになるためには、欧米と同じ文化水準である事を海外に示さない限りはまともな外交交渉の相手としても認められないという事実に気づいていたのである。
やっぱり「黄色い生き物」だったようだ。列強国にとってはアフリカ人もアジア人も「生き物」でしかなかったのが現実だろう。
だが実際には当時の日本人、文化が違い文明が遅れてはいても、考察力の鋭さと先見の明は列強国並だったのではないだろうか。だからこそ日本は難しい外交をきりぬけ、近代国家の道を驚くほどの速さで歩いてこれたのではないだろうか?
そして何より明治維新前後に活躍したリーダーは、それぞれが日本国のためを思い、日本国のために集中した。私利私欲などなかったのではないだろうか。
これからアフリカの国々に必要なのは、私欲は別にして、国のために考え行動出来るリーダーの出現だと言われている。そうでなければ民衆の勇気は無駄になってしまう。だがこれはアフリカだけでもない。世界中かつて列強国と言われた国々ですら、政治も経済もそんなリーダーが不足しているように思えてならない21世紀だ。
2011/04/11
ランチタイム
| お惣菜屋 |
アルザスは昼の12時から2時まで駐車場が無料になる。ランチタイムだからだ。初めて知った時、口があ~んぐりして、流石フランス、食事への意気込みが違うと思ってしまった。2時間の昼休みというのも日本や、ヨーロッパでもイギリスでは考えられない。サンドイッチの国イギリスでは仕事をしながら、歩きながら昼食を済ませる人が多い。フランスでは違う。昼時のレストラン、週日はMenu du jour/ムニュ ドゥ ジュールといって日替わりの前菜、メイン、デザートのコースがあるが、これに別料金でもコーヒーで締めるのが通常だ。食事にワインは当然。気分がいいと食前酒もとなる。Menuが地方でも最低10ユーロする最近の物価高だ。水、ワイン、コーヒー、チップと合わせると外食は毎日の昼食にお手頃とはいい難い。それでもしっかり食事を取らないと、しっかり仕事が出来ないようだ。レストランはどこも人でいっぱいになる。
マーケットのサラミソーセージ |
多くの人は自宅へもどって家族で昼食を取る。職場から学校から、昼は一旦家に帰って2時間後また戻って来る。だからフランスの渋滞は日に4度となる。学校には給食があるにはあるらしい。ただ利用する人がそれほどいないとか。いったい家で何を食べているのだろうかと不思議になってしまう。
私は日本で勤めていた時、45分間の昼休みで充分だった。昼食はいつも軽めにしていた。そうでなければ午後眠くなってしまう。その分夕方早く帰れるほうが嬉しい。フランスでは昼が長い分、夕方は早くても6時までが通常だ。非効率なだけではない。昼時の車移動を止めればCO2も減って環境にも良いし、経済的節約にもなるのではないかと思う。アルザスの皆さん、弁当持参に変えてはいかがでしょう?同僚やクラスメイトとのコミュニケーションを取る良い機会にもなる。12時、学校迎えや昼食支度に職場から猛スピードで走り去るお母さんドライバーを見送りながら、大変だなぁ・・・お弁当の方が楽だろうにと思っていた。
| チーズ店 |
だがこんなお弁当を作ってしまった日には、仕事どころか花見にでも行きたくならないかしらん?
2011/04/08
花まつりと復活祭
4月8日は釈迦の誕生日、仏教行事として「花まつり」が行われる。仏教国日本だが、12月25日キリストの誕生日ほどは知られていない。私も高校時代、仏教委員などが回って来なかったら、すっかり忘れていたと思う。「花まつり」は宗派に関係なく、春の花で飾られた花御堂の中、甘茶で満ちた灌仏桶の中央に立つ誕生仏に、柄杓で甘茶をかけて祝う。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来するらしい。私の通った仏教高校でも、礼拝堂(らいはいどう)の舞台に花御堂が設置され、クラスを代表して甘茶をかけるのが仏教委員の役目だった。小さな行事だが、花に囲まれてすっくり立ったお釈迦様がいつになく愛らしく思えた。甘茶の味を初めて知ったのもこの時だ。散りかけた桜と「花まつり」、釈迦の誕生日が記憶の中で結びついてしまった。
ヨーロッパではちょうど同じ頃がEaster/イースター(復活祭)だ。十字架にかけられて息絶えたイエス・キリストが、三日目に復活したことを記念する祝日。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」にあたるため、毎年日付が変わる移動祝日で、2011年は4月24日。例年より遅めだと思う。
カーニバルの終わる火曜日の翌日、灰の水曜日からを四句節といい、肉、乳製品、卵を絶つが、イースターがその解禁日だ。だから食卓には動物性食品、卵・バター・乳をふんだんに使ったケーキやお菓子、いわゆるご馳走が並ぶ。イースターは宗教行事以上にホリデーとしても、人々の楽しみになっている。日本のゴールデン・ウィークの感覚だろう。旅行に出かけない人は、家でのんびり美味しいものに囲まれて過ごす。この時期はスーパーもスペシャルな美味しい物で活気づく。フォアグラや子羊、子牛、各種ソーセージ、などなど。お菓子コーナーにはイースター・エッグのチョコや、生命の躍動が象徴とされるウサギのチョコで賑やかだ。
フランスはカトリックの国だが、最近教会離れが続いている。
伝統としての宗教は受け入れるが、個人的には信じていない人が周りにも多い。聖職者の信者を裏切るような不祥事が続いたせいで、システムに批判的な人もいる。
宗教を聞かれると私は「大多数の日本人と同じくBuddhist/仏教徒です。でも宗教というよりは、むしろ哲学として受け入れている。」と答えることにしている。
フランスでは仏教は哲学と見なされる。フランス語の学校で、初めてこのことを習ったときは少々驚いたが、私はこの考え方がとても好きだ。哲学だと他宗教の人々にも寛容さを与える。実際に仏教は他宗教を否定しないし、「我々の
神を信じろ」ではなく「自分自身を見つめろ」だから、宗教というよりは哲学かもしれない。それもあってか、フランスでのダライ・ラマの人気は絶大だ。ここ数年来ZENブームだったりもするので、仏教について興味のある人は増えていて、日本人である私に質問が飛んでくることもよくある。有難いことに高校時代、仏教や倫理の授業で習った基本的なことが大変役に立っている。
(こんなことなら居眠りなどせず、もっとちゃんと聞いておけば良かった。だが桜並木の見える窓辺の席はあまりに気持ち良すぎた。)
当時は全く無駄な授業だと思っていたが、何十年も経って、フランスで役立つとは夢にも思わなかった。仏教校を選んだわけではもちろんない。第一志望を落ちたから仕方なく行っただけだが、これも何かの縁、仏の導きだったのだろうか?
人生、無駄なことってないもんだなぁ。
花まつり、復活祭の4月、生命の息吹の中でこう感じるのだった。
ヨーロッパではちょうど同じ頃がEaster/イースター(復活祭)だ。十字架にかけられて息絶えたイエス・キリストが、三日目に復活したことを記念する祝日。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」にあたるため、毎年日付が変わる移動祝日で、2011年は4月24日。例年より遅めだと思う。
カーニバルの終わる火曜日の翌日、灰の水曜日からを四句節といい、肉、乳製品、卵を絶つが、イースターがその解禁日だ。だから食卓には動物性食品、卵・バター・乳をふんだんに使ったケーキやお菓子、いわゆるご馳走が並ぶ。イースターは宗教行事以上にホリデーとしても、人々の楽しみになっている。日本のゴールデン・ウィークの感覚だろう。旅行に出かけない人は、家でのんびり美味しいものに囲まれて過ごす。この時期はスーパーもスペシャルな美味しい物で活気づく。フォアグラや子羊、子牛、各種ソーセージ、などなど。お菓子コーナーにはイースター・エッグのチョコや、生命の躍動が象徴とされるウサギのチョコで賑やかだ。
フランスはカトリックの国だが、最近教会離れが続いている。
伝統としての宗教は受け入れるが、個人的には信じていない人が周りにも多い。聖職者の信者を裏切るような不祥事が続いたせいで、システムに批判的な人もいる。
宗教を聞かれると私は「大多数の日本人と同じくBuddhist/仏教徒です。でも宗教というよりは、むしろ哲学として受け入れている。」と答えることにしている。
フランスでは仏教は哲学と見なされる。フランス語の学校で、初めてこのことを習ったときは少々驚いたが、私はこの考え方がとても好きだ。哲学だと他宗教の人々にも寛容さを与える。実際に仏教は他宗教を否定しないし、「我々の
(こんなことなら居眠りなどせず、もっとちゃんと聞いておけば良かった。だが桜並木の見える窓辺の席はあまりに気持ち良すぎた。)
当時は全く無駄な授業だと思っていたが、何十年も経って、フランスで役立つとは夢にも思わなかった。仏教校を選んだわけではもちろんない。第一志望を落ちたから仕方なく行っただけだが、これも何かの縁、仏の導きだったのだろうか?
人生、無駄なことってないもんだなぁ。
花まつり、復活祭の4月、生命の息吹の中でこう感じるのだった。
2011/04/04
Ecomusée d'Alsace/エコミュゼ アルザス
Ecomusée d'Alsace/エコミュゼ アルザスは「最後の授業」の頃のアルザスがそのまま体験できる、空の下のMusée/ミュゼ(博物館)だ。広がる青空、ぽかぽか春の陽気で野の花が一斉に花開き、桜やマグノリアの硬かった蕾も刻々とほころんでいく。動物達も嬉しそう。ついつい学校をサボってしまっていたフランツ少年の気持ちも理解できるに違いない。
エントランスを潜ると何よりもまず、大きく伸びをしたくなる。そこは百年以上昔のアルザス。車もコンクリートもない世界だ。耳を澄ませば小鳥の歌声とコウノトリのクラックラックラッ、それに答えるように何処からか牛の声が響いてくる。自然と歩調もゆっくりになる。
1989年にオープンしたこのエコミュゼは、新築のために取り壊されていく昔ながらの建築を惜しみ、何とか保存したいと数人のアルザシアンが空き地に移設したことから始まったものらしい。現在ではアルザス中の古い建築(中には15世紀に遡るものも)が70件集められた100ヘクタールもの広さの中、ハーブ園や野菜畑があり、牛やロバやヤギなどの家畜もいて、パン屋や加治屋、散髪屋もある「生きている博物館」で、フランス、ヨーロッパ中から多くの人々が訪れている。
鍛冶屋では職人が、真赤に焼けた鉄を炉から取り出し、トンテンカンテン打ちながら素早く形をつくっている。これはデモンストレーションでもあり、見学者の質問には何でも愛想よく答えてくれる。職人の多くは地元のボランティアらしい。
角の小さな建物の前には、理髪店の円柱サインが立っていた。中に入るとまるで映画から抜け出てきたような主人が髭剃りナイフを研ぎながら、あごを泡で包まれ仰向けに座っている客に向って話しかけていた。志望者に髭剃り体験をさせているところだった。
農家の一角には牛や山羊が住んでいて、時間が来ると乳搾りが始まる。見学の人だかりに緊張したのか、牛のMaitala/マイタラ(アルザス語で小さな女の子)は注目を集めた途端、尻尾を逆立て思いっきりおしっこを飛ばし始めた。ダイナミックさに笑いが起こる。なかなか止まらないがこれも愛嬌。乳絞りの女性はうろたえる事もなく愛牛の用が済むのを待ち、慣れた手つきで乳をほぐすとリズム良く絞り始めた。調子が出ると見学の子供達に変わって体験させる。子供達はおずおず慣れない手つきだが、マイタラはそれでも気持ちよさそうにおとなしくしていた。
桜が満開になった家の中では若々しいおばあちゃまアルザシエンヌが野草のスープを作り、試食と共に材料の色々な野草の説明をしている。香りは野草のハーモニー、口にした途端体中が喜んでいるのが分かるようなスープだった。おばあちゃま曰く、森や野原に行けば何処にでも生えている野草、こんなスープを食べていたら病気なんかしないのよ!そうだろうなと見学者一同納得だ。
明るい黄色の壁の家、ふと裏に回ると大きな孔雀が散歩していた。ツンと頭を上向け「私をご覧!きれいでしょう」と気取った姿、カメラを向けられているのも充分承知のようで、私が主人よ!といった感じで立っていた。その鮮やかな美しさには脱帽だが、エコミュゼの主人公と言えばやはりコウノトリだろう。
木組みの家の屋根にはあちらこちらに大きな巣があり、アルザスの主人公達は気ままに飛んだり、散歩したり、巣でくつろいだりしている。百年以上昔と同じ光景だ。
ミュゼ内にはアルザス料理が味わえるレストランもある。またパン屋では昔ながらの方法で釜を使って焼いている。その味の良さにエコミュゼまでパンだけを買いに来る客もいて、夕方には全部売り切れになる。スタッフがパンを家に買って帰れたことがないと得意げに嘆いていた。ここのタルトフランべ(アルザス風ピザ)も絶品だ。
産業革命以降も文明は発展し続け、その急速さは増すばかりだ。田舎でも砂漠でも携帯が繋がり、PCが使える便利な現代だが、だからこそ、たまには文明のバイブレーションのないところで体と心をのびのびさせたい。歩き回って動物とふれ合い、小さな自然に目を向けてみると日頃忘れていたシンプルな感情が戻ってくる。そんな1日の後は何も考えずにぐっすり眠れる。結局それが人間にとって一番の幸せなのかもしれない。
1989年にオープンしたこのエコミュゼは、新築のために取り壊されていく昔ながらの建築を惜しみ、何とか保存したいと数人のアルザシアンが空き地に移設したことから始まったものらしい。現在ではアルザス中の古い建築(中には15世紀に遡るものも)が70件集められた100ヘクタールもの広さの中、ハーブ園や野菜畑があり、牛やロバやヤギなどの家畜もいて、パン屋や加治屋、散髪屋もある「生きている博物館」で、フランス、ヨーロッパ中から多くの人々が訪れている。
角の小さな建物の前には、理髪店の円柱サインが立っていた。中に入るとまるで映画から抜け出てきたような主人が髭剃りナイフを研ぎながら、あごを泡で包まれ仰向けに座っている客に向って話しかけていた。志望者に髭剃り体験をさせているところだった。
農家の一角には牛や山羊が住んでいて、時間が来ると乳搾りが始まる。見学の人だかりに緊張したのか、牛のMaitala/マイタラ(アルザス語で小さな女の子)は注目を集めた途端、尻尾を逆立て思いっきりおしっこを飛ばし始めた。ダイナミックさに笑いが起こる。なかなか止まらないがこれも愛嬌。乳絞りの女性はうろたえる事もなく愛牛の用が済むのを待ち、慣れた手つきで乳をほぐすとリズム良く絞り始めた。調子が出ると見学の子供達に変わって体験させる。子供達はおずおず慣れない手つきだが、マイタラはそれでも気持ちよさそうにおとなしくしていた。
桜が満開になった家の中では若々しいおばあちゃまアルザシエンヌが野草のスープを作り、試食と共に材料の色々な野草の説明をしている。香りは野草のハーモニー、口にした途端体中が喜んでいるのが分かるようなスープだった。おばあちゃま曰く、森や野原に行けば何処にでも生えている野草、こんなスープを食べていたら病気なんかしないのよ!そうだろうなと見学者一同納得だ。
明るい黄色の壁の家、ふと裏に回ると大きな孔雀が散歩していた。ツンと頭を上向け「私をご覧!きれいでしょう」と気取った姿、カメラを向けられているのも充分承知のようで、私が主人よ!といった感じで立っていた。その鮮やかな美しさには脱帽だが、エコミュゼの主人公と言えばやはりコウノトリだろう。
木組みの家の屋根にはあちらこちらに大きな巣があり、アルザスの主人公達は気ままに飛んだり、散歩したり、巣でくつろいだりしている。百年以上昔と同じ光景だ。
ミュゼ内にはアルザス料理が味わえるレストランもある。またパン屋では昔ながらの方法で釜を使って焼いている。その味の良さにエコミュゼまでパンだけを買いに来る客もいて、夕方には全部売り切れになる。スタッフがパンを家に買って帰れたことがないと得意げに嘆いていた。ここのタルトフランべ(アルザス風ピザ)も絶品だ。
産業革命以降も文明は発展し続け、その急速さは増すばかりだ。田舎でも砂漠でも携帯が繋がり、PCが使える便利な現代だが、だからこそ、たまには文明のバイブレーションのないところで体と心をのびのびさせたい。歩き回って動物とふれ合い、小さな自然に目を向けてみると日頃忘れていたシンプルな感情が戻ってくる。そんな1日の後は何も考えずにぐっすり眠れる。結局それが人間にとって一番の幸せなのかもしれない。
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