2011/02/27

謝肉祭

寒のもどりで気温は2℃、それでも確実に早春の息吹を感じる今日この頃だ。木々の芽が堅い蕾をもたげ、枝の先端に新しい生命色を発し始めた。春到来への準備は着々と進められている。もうすぐカーニバルがやってくる。ウキウキ気配を感じてか、眠ってなんかいられないと常連の赤毛リス君が冬の眠りから目覚めたようだ。
駆け回る様子に久々の戸惑いがちょっぴり見える。

カーニバルの季節、街もお祭り気分になる。Boulangerie/パン屋にはBeignet/ベニエというお菓子が並ぶ。ドーナツのような、ジャムやチョコレートが中に入った揚げ菓子。グッズ売場では、パレードのための変装を今年はどのように着飾ろうかと親子であれこれ思案している姿が微笑ましい。
子供達は瞳きらきら頬赤く高揚し、大人も釣られて童心に返るようだ。


ベニエ
 Carnival/カーニバルはフランス語で Carnaval/カルナヴァル、ドイツ語で Fastnacht/ファストナハト、日本語では謝肉祭。
もともとは春の到来を祝い、豊穣・多産を祈るゲルマン民族のお祭りだったが、キリスト教のイースター関連のお祭りとしても広がった。イースター(復活祭)キリストの復活を祝う日で、春分の後の最初の満月の次の日曜日なので毎年日にちが変動するキリスト教ではその前の46日間、肉や卵、乳製品、油などを断って、祈りを捧げる時期とされているらしく、カーニバルはその苦行の前に思い切り飲んで食べて騒ごうというお祭り。
地元独自の祭りや風習と結びついたりもしているから日程もそれぞれで宗教色は薄く、結局は春を祝ってみんなで騒ごう!というもののようだ。

この近辺ではバーゼルのカーニバルが盛大で、スイス一を誇るらしい。真暗でシンと静まった街に午前4時、一斉に照明が付けられ、音楽と共にパレードが始まる。ドラマディックな幕開けだ。
午後には10000から18000人もの仮面や衣装をまとった人々が音楽隊と共に街を練り歩き、色とりどりの紙ふぶきを撒き散らす。それが3日間続くというから気合が入っている。
「すごい人込みなんでしょうねぇ。朝早いしまだ行ったことないんです」という私にバーゼル在住の日本人女性が答えた。
「私は毎年行くわよ。ファストナハトに行かないと1年が始まらないもの!」

そうか、山笠行かないと夏が始まらない博多っ子と同じかな・・・妙に納得してしまったのであった。

2011/02/25

スーパーは Super!

アルザス料理のレストラン
旅先でスーパーを見つけると用はなくても入ってしまう。高級ホテル巡りと並ぶ私の密かな楽しみである。スーパーは地元の人々の食料品日常品があるので、地方性、お国柄が出ていて面白い。その土地の特産品も多く、お土産にも喜ばれる物が見つかる。海外旅行だと生鮮食品は持帰りが無理だが、それでも魚や肉、お惣菜売り場などは見ているだけでも楽しい。

さて、ミュルーズ近辺のちょっと変わった買物事情をお話ししよう。ミュルーズ中心からスイス、ドイツへ車30分弱で行けるため、日常の買物も国境を越える。楽しみもあるがそれ以上に物価の差があるから、ガソリン代を考慮しても行く価値あり、となるためだ。そのガソリンもスイス、フランス、ドイツの順に安い。反対に食料品はドイツ、フランス、スイスの順。ドイツはシャンプーやヘアカラー、化粧品などドラッグストアにあるような商品や日曜大工関係も安い。何か1つだけ必要な場合は近くで済ませるが、リストを作って買いだめをしにドイツまで、ついでに食事でもして来ようかとなるのが恒例だ。レストランもドイツが手頃でボリュームもある。ただドイツの人々はフランスの味を楽しみにアルザスへ来るようだ。勿論スイスからのお客もドイツ、フランス共に多い。

ミグロのタルトリンツ
スイスは基本的に何でも高いが、国境を超えたバーゼルはスイス第3の都市で時計をはじめとする高級品が揃い、おしゃれなショッピングをするのに適していて、中にはスイスがお得な物、スイスにしかない物もあるので時々行くにはいい気分転換になる。スイスにはMIGROS/ミグロというスーパーがどこにでもあり、場所によっては大規模で洋服から家具、雑貨、食品と何でも揃う。MIGROが生産するMIGRO商品はリーズナブルで品質が良く、特に食料品、色々味の板チョコとリンツタルトは必ず買って帰る。

価格は安いが質実剛健、飾っ気のないドイツのスーパーに比べ、フランスのスーパーは種類が豊富だ。郊外には更に大規模なハイパーマーケットもあり、途方もなく広く迷ってしまいそうだ。建物の中にはヘアドレッサーや靴の修理屋、ベーカリーや香水店など通常の店舗も入っていて便利だ。多くの家庭では週に1回家族でハイパーマーケットにやって来て、小さな子が3人は入りそうな大きなカーゴいっぱいの買物をし、車に積め込んで帰る。買物に夫婦同伴は一般的。女性へのヘルプなのか、食品を自分で選びたいからかは良く分からない。
売り場ではそれはそれは真剣な目でチーズ選びをする男性の姿をよく見かける。フランスのチーズの豊富さは日本でも知られているが、アルザスは「マンステール」が特産だ。香りがまた素晴らしい。「何日も洗わない足の匂い」とマンステール苦手のアルザス人は言う。チーズの中でも強烈な香りのチーズだが味はマイルドでコクがあり、病み付きになるチーズだ。クミンを少しかけるのが通の食べ方らしい。初めてマンステールを試した時、友人達の興味深々な鋭い目に囲まれたのを思い出す。
一切れ、匂いで鼻に皺が寄る、それでも口にしてみてモグモグ。「あれ、美味しい。もう一切れ頂戴!」彼らの顔に「よしよし」と満足気な笑みが浮かび、即、より大きな一切れが出されたのだった。

2011/02/22

ドイツの温泉 バーデンワイラー

バーデンワイラーのクアハウス
風呂文化は日本特有の、私達の自慢とする文化の一つだ。温泉の露天風呂にでもゆっくり浸かった日には、日頃のストレスなんて全部忘れて幸せポカポカの気分になれる。昔ロンドンに滞在していた時、何より恋しくなったのは「温泉」だった。
イギリス、ロンドンから2時間のところにBATH/バースと言う街がある。文字通り「入浴」。2000年前、北上してきたローマ人が風呂を築いた地で、今もしっかり跡が残っていて見学が出来る。ローマ式風呂は日本式風呂のような風情に欠けるが、大規模な建築は2000年前とは信じがたいほど精巧で斬新に出来ていて、中は脱衣場、サウナ、湯風呂、水風呂、休憩室などに区切られている。バースのローマ風呂跡の中には今だに湯がはった所もあり、「飛び込みたいねぇ」と日本人の友人と話していたら、ガイドがヒヤッとした顔をしていた。温泉恋しさにやりかねない勢いがあったのかもしれない。当時はなかったが、現在は近くにスパが出来て入浴出来るようだ。イギリス唯一のスパとHPに書いてあった。

バーデンワイラー ローマ風呂跡
さて、ドイツには温泉地がいくつかある。ドイツ語で Baden は「入浴」と言う意味で、Baden Baden/バーデンバーデンをはじめ、フライブルグから少し南にある Bad Krozingen/バッドクローヅィーゲン、ここは大分県の長湯温泉と泉質が同じらしく、姉妹温泉になっている。またミュールーズから1時間弱のドライブでいける Baden Weiler/バーデンワイラー などがそうであり、ローマ式風呂の公共施設がある。
中でもバーデンワイラーは近いこともあり、時々訪れるお気に入りの場所。バーデンバーデンほど豪華ではないが、丘の上の古城跡を目指して登ったところにある小さな温泉町だ。ロシア人作家チェーホフの最期の地としても知られる。西暦前のローマ風呂跡もあって見学でき、その横に町営のクアハウスがある。日本の温泉風呂と違って温水プールのようで、水着を着けて入る。屋外には打たせ湯のようなものもあり、お湯のマッサージが出来る。室内は大きなプールが2つと湯温が一番高いジャグジー風呂、水風呂がある。あちらこちらに椅子や長椅子が並べてあるからいつでも休憩出来、室温が調整された横たわれる部屋もある。追加料金になるがサウナやマッサージ、特別風呂も色々あるようだ。国境に近いだけあってスイス、フランス、ドイツから入浴客が集まり、お思い思いに湯船に浸かって、言葉は分からなくてもお互いニコニコと裸の付き合いを楽しんでいる。心も体もリラックスした人々の顔は皺ものびて血色もよく、まさに温泉マジックだ。

丘の上の古城
風呂あがりのビールを一杯!という気分になったら、近くの5星グランドホテルのバーがお勧めだ。お酒が飲めない私はアップルショーレ(炭酸りんご水)をオーダーする。日本の高級ホテルではコーヒー1杯が千円なんてザラだが、ヨーロッパの高級ホテルの飲み物は普通のカフェとさほど値段が変わらず、観光地では格好を気にする必要もない。それでいてデザートはホテルの味、内装やサービスは高級ホテルのものだから大変お得な穴場だと思う。宿泊やディナーが出来るほど余裕のない私は、旅行先でお茶をしに高級ホテルを訪れ、ついでにぶらぶらホテル内を見学するのが密かな楽しみだ。コツは堂々と。フロントやスタッフにはにっこり「ボンジュール」「グーテンタック」「ハロー」とこちらから。「素敵なホテルですね」なんて言われたスタッフがすっかり気をよくし、時間外にも関わらず豪華なレストランを見学させてくれたこともある。ほんとうに格のあるホテルは見た目で客への態度を変えたりせず、上品な気持ちの良いサービスを自然に提供してくれる。これぞ伝統あるヨーロピアンホテルのエスプリなんだなと感心しつつ、こちらも最後は「ありがとう。さようなら」を言って後にする。

2011/02/21

黒い森の街 バーデンバーデンとフライブルグ

黒い森の北、ストラスブールから40キロのところにバーデンバーデンがある。温泉保養地として有名で、音楽家のブラームス、シュトラウスなどもこの地で保養したらしい。日本からのドイツツアーにもよく組み込まれている。温泉に入った後はカフェのテラスで午後のお茶を楽しみながら一日のんびり過ごす。そんなゆったり時が流れる優雅な街だ。そして夜、是非お勧めしたいのがカジノである。カジノといってもラスベガスやマカオとはかなり違い、男性はジャケットとタイ着用でなければならない。ドイツ最古で250年以上の歴史があり、マレーネ・デートリッヒが「世界で最も美しいカジノ」と賞賛したことでも知られる。バーデンバーデンの街に相応しいシックなカジノだ。ギャンブルに興味がなくても、豪華な建築を見学し、雰囲気を楽しむだけでも充分価値がある。まるで古き良き時代の映画の中に入り込んだようだ。ルーレットやブラックジャック、ポーカーなどそれぞれのテーブルで興奮のドラマが繰り広げられる。ディーラーも洗練されていて、私のようなおどおど小額を賭けるギャンブラーにも愛想がよかった。すっかりヒロイン気分になった私は映画のごとく「大当り」を期待したが、結局予算をスッカラカンにしてしまってFIN/完にした。それでも帰りはリッチな気分。夢心地に外に出ると、カジノの前庭の木になった芳しいレモンが月明かりに輝いていた。ある夏の日の思い出である。

 
フライブルグ旧市街
 
水路で水浴び
 










  
こんな御面屋さんも
黒い森の南にある街がフライブルグ。アルザスの南、ミュルーズから車で1時間ほどで行ける。大学があるので若い活気も感じられる街だ。旧市街は車禁止になっていて、石畳の道の脇には小さな水路があり、いつもきれいな水が流れている。ドイツの伝統的なお店とおしゃれなブティックが混在していて、ウィンドウを見ながら歩くのが楽しくなる。ところで現代の日本ではちょっと考えられないことだが、フランスもドイツも日曜日は店舗が全て閉まっている。レストランやカフェは開いているところもある。先日私がフライブルグを訪れたのも日曜日だった。はじめ私は稼ぎ時の日曜日に閉めるなんてナンセンスと思ったが、慣れてしまうとそれはそれで、週に1日ショッピング出来ない日があってもいいのでは?と思うようになった。お店が閉まった静かな街でも何処からともなく人が現れ、カップルや犬連れ、あるいは独りでのんびり散歩を楽しんでいる。そんな光景も味があって良い。またドイツの街には何処かしらにアイスカフェがある。アイスクリームが色々そろったカフェのことで何故か年中賑わっている。フライブルグにも街の中心にあって、ここは日曜日でも開いていた。夏はもちろんだが、寒い冬でも沢山着込んで石畳の街を歩き回り、体が温まったところでアイスカフェに入って冷たいアイスを食べる。これがドイツ人の日曜日の過ごし方なのかもしれない。

2011/02/20

農業国フランス

パリで開催される "Le Salon International de l'Agriculture 2011" /国際農業展のため、フランス各地からトップモデル達が続々と会場入りする様子がTVのニュースで報道されていた。その様子はまるでカンヌ入りする大女優達のよう。毛並みが艶々のヒツジや眩しいほどに白くツンとすましたアヒル、農夫が手塩に掛けて育てた中から華の舞台にこれぞと選んだ美しい家畜達だ。330種類もが集まるらしい。騒がしさにご機嫌ななめの牛が、拗ねて車から降りようとしない場面も。アレヨッ、パンパンッと慣れた手つきで飼主に尻をたたかれモ~っと前に進む。照明に勘違いした鶏はココリコーと鳴き続け、会場内はびっくり興奮気味の家畜たちと、山ほどに積まれた干草を分け、パリの会場内の農場作りに忙しい農夫たちで高揚していた。期間中、フランス大統領をはじめ大臣や政界の大者も訪れる。毎年のことながら報道陣の前で牛に触る様子がギコチなかったりするが、農業を応援とにっこりアピールする。農業国フランスならではの大規模な農業展示会だ。

フランスは農業国である。一般の人も土いじりに目覚め、庭にも菜園が流行る最近は特に、この「農業国」はメリットに響く。ところが実際には農業経営者達は絶望的に苦しんでいて、農業離れが進んでいる。昨晩もTVでルポルタージュがあった。牛を飼う農場のオーナーは資金繰りに尽き、生活費もままならず、病気になった牛に獣医も呼べず、見殺しにするしかなかったらしい。 餌代も払えず15分おきに催促の電話に悩まされている。家業の農業を継いだ女性は、1年中汗水流してやっと収獲したりんごを、価格競争の激しい大手スーパーに買い叩かれ、利益はほとんど出ないと言っていた。損失が出る場合もあるらしく、何トンものりんご、見目は悪いが充分に食べられるりんごを捨てるより仕方がない。彼らの目に悔しさともどかしさの涙が滲んでいた。

ちょうど1年前、南仏の農業経営者が人気のトークショー番組に出演し、今の農業の実態を語り、このままでは次の時代に繋げることが出来ない、何とか政策を打ち出さないと国が危ないと訴えた。真正直な姿と実経験からくる怒り、若い聴衆もコメンテーターも心を打たれ、大拍手が起こったほどだった。だがそれから1年、先週同じムッシューが再び登場したが、その後何の改善政策もなく、結局彼の幾ヘクタールもの梨畑も、全ての木を切り生産を止めるより仕方がなかったと語った。
「どんな思いで木を切っていったか想像できますか?」涙声になり、声は怒りで震えていた。コメンテーターが、会場の若者達を前に農業という職業についてどう思うか尋ねた。
「農業は素晴らしい職業です。私はこの職業に誇りを持っている。」彼ははっきり言い切り、最後に付け加えた。
「希望もすっかり捨てた訳ではない。いつか再会できるように、木の根元を残してある」


最終消費者の一人として、深く考えさせられてしまった。

2011/02/18

黒い森

むかしむかし昭和の頃、大阪で万国博覧会が開催された。その中に住友童話館というのがあった。当時幼すぎて私はほとんど何も覚えていない。ただこの童話館に入ったのが夕暮れ時だったこと、ガラス窓の中に童話の世界が繰り広げられていたこと、それらがよく見えるように父がひょいと抱っこしてくれたことだけをおぼろげに覚えている。そして何故だか私はこの住友童話館の小冊子を持っていた。表紙の縁に童話館で見た主人公の人形たちが並んでいて、浦島太郎、かぐや姫、シンデレラ、ブレーメンの音楽隊、はだかの王様、アリババと40人の盗賊など世界の童話が集められた小冊子だった。何度も何度も母に読んでもらい、自分でも読むようになり、小冊子はセロテープだらけでぼろぼろになった。今でも実家の宝箱の中に納まっている。
こうして私は大の童話好きになった。

お気に入りのグリム童話を読みながら、森ってどんなのだろうと想像した。日本は山ならいくらでもある。けれど森は身近にない。草薮を踏み分けず歩いていける森にあこがれた。深い森の中、歩きつかれてお腹がすいて、目の前にお菓子の家が現れたら!森で迷ってみたいとさえ思っていた。

高台から黒い森
さてこの「ヘンゼルとグレーテル」の舞台となった
「黒い森」がアルザスからドイツ側に広がって見える。

フランスは六角形の形をしていることから l'Hexagone/エグザゴン(六角形)と呼ばれたりもする。
アルザスはこのエグザゴンの北東に位置し、面積は兵庫県と同じぐらいらしい。縦長のヴォージュ山脈を境に西側がフランス・ヴォージュ県、東側がバ・ラン(ラインの下流)県とオ・ラン(ラインの上流)県からなるアルザス地方。県名のとおり、スイスを源泉とし、オランダのロッターダムで海に合流するライン川がヴォージュ山脈に平行して流れている。このライン川沿いは、現代のフランスとドイツとの国境でもある。そしてドイツ側、ちょうどヴォージュ山脈と向かい合うように、ライン川に沿って広がっているのが「黒い森」だ。

「黒い森」とはなんとシンプルで神秘的な名前だろうと私はいつも思う。童話の舞台にぴったりだ。
ドイツ語でSchwarzward/シュヴァルツヴァルド、フランス語ではForêt Noir/フォレ・ノワール。

ケーキ好きはここでピンと来るかもしれない。チョコレートスポンジの間にサクランボのシロップ漬けが挟まれ、生クリームで覆われたあの美味しいケーキ。ドイツ語でSchwarzwalder-Kirschtorte(シュヴァルツヴェルダ-キルシュトルテ)、黒い森のサクランボのお菓子と言ってドイツ生まれらしい。
フランス語ではそのままForêt Noir/フォレ・ノワール、アルザスのお菓子でもある。日本のケーキ屋さんでも最近よく見かけるが、旅行の機会があれば是非本場の味を試していただきたい。日本と違ってサイズが大きい上、ドイツ・フランス共にサクランボがたっぷり強いアルコールに漬けてあるからお酒がダメな人には要注意。私もそのひとりで「黒い森」に真っ赤になって、すっかり酔っ払ってしまったことがある。

黒い森周辺にはドイツの観光地、保養地がいくつもある。そこで次回はドイツの町を紹介したい。

2011/02/17

アルザスの歴史 2

第2次世界大戦後、日本には平和が続く。日本国民誰もが「もう2度と戦争はしない」と誓い、憲法でも戦争の放棄が謳われた。
フランスも一般市民の気持ちは同じだったと思う。戦勝国とは言え、痛手は敗戦国並だったのだから。
ところが今度は植民地アルジェリアで1954年-1962年独立戦争が起こる。同じ頃、旧植民地のベトナムでも政情が不安定になり、ベトナム戦争へ突入していく。 
平和なフランス本国に次々と難民、移民が押し寄せることになる。それだけではない。カンボジア、イラン、ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、チュニジアect…etc…
一瞬として世界が平和になったことはない。いつも犠牲となるのは一般市民だ。

ところで日本は国籍取得が大変難しい国とされている。二重国籍は認められない。例えば日本人がフランス人と結婚してフランス国籍を取った場合、日本国籍が自動的に抹消される。逆に日本人と結婚した外国人は日本に帰化するのに長い年月がかかる。その点フランスは、二重国籍が認められている。また外国人がフランス人と結婚して3年続けば、審査を得てフランス国籍を取ることが出来る。日本人の場合はフランス人と結婚してもそのほとんどが日本国籍を保つ。けれど国によってはその国民が母国籍を捨て、迷わずフランス国籍を選ぶケースも少なくない。ましてや2つ取得が可能であれば尚都合良い。

2000年を境にユーロが登場し、国境が事実上なくなり、EUが次々と拡大し、移民は増すばかりとなった。合法、違法、あらゆる理由であらゆる国から人々が自由・平等・博愛のフランスを目指してやって来て、フランス国籍人となっていく。"When in Rome, do as the Romans do" 「郷に入っては郷に従え」。懸命に融合し、人生を切り開いていく人々も多い。だが簡単なことではない。遠く母国を離れ期待通りにはいかず、言葉も考え方も習慣も全く違う地で混沌としている人々も多いのが事実だ。迎え入れた側は迎え入れた側で、あらゆる問題に直面し喘いでいる。フランスではこの数年、フランス人としてのアイデンティティが問われ、討議されるほどになっている。またこれはフランスに限らずイギリス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポルトガルとヨーロッパの国々が抱える深刻な問題だ。これらの国はその昔、南米、アフリカ、アジア諸国を植民地化し、現地人を使って利益を吸い取ってきたわけだから、現代の現象は仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。ただ不公平に思うのは、その代償を払わされているのが一般市民ということだ。

アルザスも例外ではない。昔、町の目抜き通りとして賑ったらしい通りが、今は殺伐としたオリエンタルな通りに変わっている。マルシェ(市場)も「何処の国?」といった感じだ。少数が多数に代わり、多数が高齢化と少子化で少数に変わっていく。それにつれ、都市の精神も変わりつつあるのがはっきり見える。老後の平安で便利な生活をと選んだ新築のマンションが、徐々に地域が変貌し20年後の今、快適どころか安全も脅かされるようになってしまったという例もある。
過酷な世界大戦を生き延び、毅然と誇りを持って戦後の再建にも立ち向かってきたアルザスの人々は「平和」になった現代、アルザスが内側から無残に壊されていくを目の当たりにしながら人生最後の日々を送っている。私自身外国人ではあるもののやるせない気持ちになってしまう。

「世界を変えることは出来ない。変えることは出来るのは自分自身のみだ。」
この地でよく耳にする言葉である。



2011/02/15

アルザスの歴史 1

「アルザス」とひとことで言っても昔は一つではなかった。ストラスブール、コルマール、ミュルーズ、そして小さな村々それぞれに長い歴史がある。ケルト人が住んでいた、神聖ローマ帝国がやってきた、アルマン人が増えた、フランスのルイ14世に割譲された、フランス革命に積極的だった、自由都市となった、スイスと同盟を結んだetc…
その中でもミュルーズは最後まで独立を保てた 都市らしく、1798年市民投票の結果、フランスに編入を決定する。栄えているとはいえ、小さな都市が独立を保てる時代ではなくなったからだ。この編入についてミュルーズ歴史博物館の説明員は「民主的な投票の結果」と力説していた。「自ら選択した」という事実は誇りと責任感に繋がる。個人も国も同じだなと思ってしまった。
何はともあれ、このミュルーズのフランス編入で現在と同じアルザスの形となった。

さてこれからが更なる波乱なアルザスの運命だ。

1798年から73年後
1871年 普仏戦争においてフランスの敗北により、アルザス・ロレーヌはドイツ領となる。
    「最後の授業」はこの時の物語で1873年に出版された。
47年後
1918年 第一次世界大戦においてドイツの敗北により、アルザス・ロレーヌはフランス領となる。
22年後
1940年 第2次世界大戦においてドイツの侵略により、アルザス・ロレーヌはドイツに占領される。
4年後
1944年 第2次世界大戦においてドイツの敗北により、アルザス・ロレーヌはフランス領となる。

あっちに取られこっちに取られ。その度に政治は勿論、機関、言語、教育、すべてが変わる。
決して遠い昔のことではない。


ミュルーズ歴史博物館渡り廊下
つい先日スーパーで、ふとしたことから見知らぬ紳士と立ち話をする機会があった。老齢ながらきちんとした身繕いで姿勢が良く、話しにも活気があり、鋭く澄んだ目が若々しい紳士だった。
「失礼ですがおいくつ・・・?」90過ぎと聞いてびっくり。
「うそでしょ」よく言われるらしい。
「ホントだよ。なんたって私は4回国籍が変わったのだから。まず生まれたときはドイツ人、それからフランス人・・・・」
1917年生まれだった。
得意気に指折り数える紳士。激流の時代を生き抜いた人間の、悟りのような優しさがあった。

私は長い間、実のところアルザスの人々は、フランス、ドイツ、どちらからを始まりとし、どちら派なのだろうかと興味を持っていた。フランス語のサイトではルイ14世のストラスブール入城が重要ポイントとして出てくる。フランス革命に積極的だったとも。日本語のサイトではドイツ語からの訳が多いのか、ドイツ寄りを強く感じる。「1944年フランスに占領」なんて表現も出てくるほどだ。歴史とは奇なもので、事実は同じでも視点によって話が変わる。しかもよく考えればアルザスは、日本のような単一民族ではない。地続きにフランス、ドイツ、スイス、イタリア、その他からも様々な人が移り住み、結婚し子孫を作り、アルザス人となっていった。当然人々の考えはその時代時代の影響と、先祖や家族、仕事や友人、結婚相手などの影響も受け、変わってくる。だからこそ複雑であったのだろう。ただ第2次世界大戦後65年以上経った今、アルザスの人々は、アルザス人であることを誇りとしながらフランス人としてのアイデンティティを持ち、道徳や安全が崩れていく「我が国」フランスを憂いつつ生きている、という印象を受ける。

かつてのデメリットであった国境沿いはグローバル社会においてメリットに変わり、ドイツ語が出来ることもプラスとなったアルザスは、住民一人当たりの総生産、輸出高がフランスの中でも高い、豊かな地方となった。

めでたし、めでたしと言いたいところだが、歴史はひと時も止まらない。更に次の時代へ突入しようとしているのを感じずにはいられない日々である。私はこのことを歴史の延長としてお伝えしたい。
次回へ

2011/02/08

最後の授業とアルザス

ドーデ(1840-1897)
「最後の授業」をご存知だろうか。アルフォンス・ドーデの「月曜物語」という短編小説集の中のアルザスが舞台となる一編だ。
フランツ少年が朝、遅刻して学校に行く。厳しいアメル先生が今日は怒らない。いつもと様子が違うぞと感じていたところ、先生が皆に今日が最後の授業だと告げる。戦争に負けてしまったため、明日からはすべてがドイツ語に変わり、先生も変わってしまうのだ。初めてフランツ少年はこれまで勉強を疎かにしてきたことを後悔する。アメル先生が授業の終わりに「Vive La France!(フランス 万歳!)」と黒板に書いて物語は終わる。

日本では知る人ぞ知る「最後の授業」。なぜなら小学校の国語の教科書に載っていて、私も5年生か6年生で学び、感想文まで書かされたのを覚えている。当時私は、先生の狙い通り母国語の大切さを感じる一方で、「と言うことはアルザスの人はフランス語とドイツ語が出来るのか・・カッコイイなぁ。」と思った。感想文にもそう書きたかったが、思ったことを書きすぎてよく怒られたので、結局無難に終わらせたのも良く覚えている。これが私とアルザスとの出会いであった。私にとってアルザスは遠く、暗く貧しく、悲しい所だった。

実際のアルザスは太陽がいっぱいの、昔から農業、産業、商業共に栄えた豊かな国だった。
だからこそ、取り合いの対象となってしまう過酷な運命にあったのだ。

この物語は、第1、2世界大戦よりずっと前の普仏戦争(1870年)においてフランスが負け、アルザス・ロレーヌがドイツ領となった時の話だ。作者Alphonse Daudet/アルフォンス・ドーデは南仏の出身でアルザス人ではない。結局ドーデはフランス語を通して、戦争に負けたことの屈辱感とフランス愛国心を訴えたわけで、アルザスの人々へというよりはフランスの人々へ向けた話のようである。アルフォンス・ドーデはフランス人なら誰でもが知る作家だが、実際「最後の授業」を知っているアルザス人に私は会ったことがない。尋ねる度にがっかりさせられている。

母国語についてもアルザスではフランス語、ドイツ語以前にアルザス語が母国語である。これはドイツ語に近い。現在でも若い人は使わなくなったものの、老夫婦の会話はアルザス語で交わされることが多い。世代にもよるが、アルザス語、フランス語、ドイツ語を普通に話せる人が珍しくないマルチリンガルな所である。

母国語の大切さを考えさせられるこの短編小説は、日本で長らく教科書に採用され、感動を与え続けてきた。 けれど現実にはアルザスの母国語はアルザス語であり、フランス中央の政治的な意図が絡む裏面があったことから反省され、1986年に教科書から消えた。云わば、ストーリーそのままを純粋に理解し感動してしまった日本人が、作者の思惑とは別に日本において、美しい「最後の授業」ワールドを作っていたというわけだ。侵略されたことのない幸運な島国日本が陥りやすいことで、この現象は「最後の授業」に限らずと私は感じている。

さて、アルザスの歴史はとかく複雑で過酷である。それについては次回をご期待下さい。

2011/02/06

VOSGES/ヴォージュの見える風景

「私、前世はオランダ人だったと思うの」昔、友人が面白いことを言った。
オランダの果てしない地平線を見て、初めてなのに懐かしいような、不思議な安堵感を感じたからだそうだ。

私は逆に、山の見える風景に心の落ち着きを感じる。日本は山国だから、私のような山景色派が多いのではないだろうか。だから友人の「前世オランダ人」説には納得させられた。

正面がグランバロン
私がアルザスを好きな大きな理由の1つに、この山景色がある。縦長いアルザス地方に沿っているVOSGES/ヴォージュ。山脈だから、どこからでも山並みが見え、それだけに人々との繋がりも深い。
「ヴォージュが近くに見えるから、後で雨になるよ」
「グランバロンに初雪が積もった。冬が来たねぇ」
グランバロンとはヴォージュ山脈の中で最も高い山(1424m)のこと。山頂に球状のレーダーがあるからGRAND BALLON(大きな球)と呼ばれ、目印になって見つけやすい。
毎年グランバロンの最後の雪が消えると、アルザスの人々は本格的な春を確信する。

そのふもとに、GEISHOUSE/ガイスース、アルザス語で「やぎの家」という小さな村がある。
レストランが1件、売店が1件と、ほんとにこじんまりした山村である。2時間ほどのハイキングで、グランバロンの山頂まで登れる。村の所々には昔から使われてきた、山水が流れ出る石造りの水場があって、いつも涼しげな水音を響かせている。鈴の音にふと振り返ると、斜面の草地では羊やヤギが、黙々と草を食べている。 村全体にのんびりと平和な雰囲気が溢れていて、 初めてガイスースを散策した時、私はなぜか、家の裏の小さな山道を歩いていた幼い頃を思い出した。「マムシが出るから一人で行ってはダメ」と母に厳しく止められながら、気がつくといつも、私はその山道に向っていた。春はタンポポで小道がいっぱいになり、ひとりで作り歌を歌いながら歩くのが好きだった。あの遠い昔の感覚を思い出したのだ。
草を食べてる羊
 村にも町にも都市にも精神がある、と私は思っている。それはそこに住む人々、訪れる人々が長い年月をかけて築き上げる。GEISHOUSEの精神は、VOSGEの自然とそこに住む人々が上手く調和していて、だから訪れる人々に安らぎを与え、子供の頃のような幸福感や純粋な好奇心を呼び起こしてくれるのかもしれない。
 小さな野の花が愛おしく感じる、そんな「ヤギの家」である。

2011/02/02

アルザスの色彩

冬の青い空に夕方の月
透き通る真青なアルザスの空は夏も冬も気分が晴れ晴れする。朝の薄い桜色、夕方の黄金色の空も大好きだ。真冬の枯れ木の枝々の間から見える、白いヴェールをかぶったような冷たい空は、時間によってヴェールの奥の光が微妙に変化し面白い。

アルザスはフランスでも色彩の豊かな地方だと思う。
小さな村を訪れるとそれぞれの家が、木組みの木の色と壁の「我が家色」のコントラストを、空に映えさせ並んでいる。瓦ごとに微妙に違う、赤茶けたモザイクのような屋根も趣がある。小道の奥は葡萄畑の丘に続いていたりして、その緑が眩しく輝く。庭やテラスには季節ごとの花々がこれでもか!といった感じで色とりどり華を飾る。
観光客にとってはデザインし尽されたショウのよう。

どの家も手入れに抜かりがない。庭も掃除機でもかけたのか?と思われるほど完璧だ。
花や植物、畑の野菜もしっかり手がかけられていて、元気いっぱいである。家主の思い入れが感じられ、 それが旅行者を引き寄せる魅力にもなっていると思う。
しかもこれらは「見せる」ためではなく、何より自分が「見て満足」するための手入れである。
だから気合も入り、楽しめるのだろう。
家の外側だけではない。内側はさらにもって塵一つなく、古い家具もピッカピカ。日曜大工の仕事場である  ガレージでさえ、道具が整然と並んでいることが多い。どうせ汚れるから、どうせ明日使うから  無造作でも・・・というのは許されないのだ。日曜大工も職人気質で行われる。
アルザス人の気質は、ドイツ人やスイス人のそれに、勝るとも劣らずである。

「恥ずかしくない程度にきれいにしておく」以上には積極的になれない、油断しようものなら自分でも見てびっくり!になりかねない私は、アルザスの色彩と同じく5Sについて、いつも感心するばかりである。

注)5S 整理、整頓、掃除、清潔、躾。あの、日本人お得意の5Sのことです。