2011/04/27

中世の山城 Haut-Koenigsbourg

今回はアルザスが自慢とする、中世の山城へご案内しよう。
ミュルーズからストラスブールに向って高速を走らせていくと、中間の街コルマールを過ぎてほどなく左のVosges側、山の頂きに中世の雰囲気漂う山城が見えてくる。これがHaut-Koenigsbourg/オー・クニグスブールだ。青空に映える城はポストカードそのまま文句なく美しいが、雨になりそうな灰色の空に聳える城も迫力があり、ドラマティックだ。夜はライトアップされるので、更に遠くまでその存在感を強くアピールしている。


Haut-Koenigsbourg/オー・クニグスブールは12世紀、Hohenstaufen/ホーエンシュタウフェン家によって建てられた「王の城」という名の城だ。1633年、30年戦争の戦いでスウェーデン人により焼失し、以後長い年月廃墟となっていた。1971年、普仏戦争でアルザスがドイツ領となった後、ドイツ最後の皇帝ウィルヘルム2世の命で1901年から1908年の年月をかけて修復され、綿密に中世の山城が再現されたのだった。その修復は見事である。当時のドイツ帝国の技術と財力、そして最後の皇帝ウィルヘルム2世と Bodo Ebhardt/建築家・考古学家の情熱の賜だろう。第2次世界大戦後アルザスがフランスになっても、1993年には歴史的建造物に指定され、今だアルザス観光の名所として多くの観光客の心を捉えている。

城の中も各部屋細やかな復元が行き届いている。その様子はまるで先日まで当時の人々が生活していたかのようだ。中庭からふと窓辺を見ると、無邪気な中世の娘達が微笑みかけているような気さえしてしまう。寒さが厳しいアルザスの山の上、冬はさぞ寒いに違いないと思うだろうが、タイル張りの大きな暖炉はエアコンより、セントラルヒーティングよりも心地よい暖となる。暖炉は現在使われているわけではないが、前にドイツのレストランで同じタイル張りの暖炉を見たことがある。その心地よい暖は最新技術のかなわないものだった。

おとぎ話に入り込んだような気分で城の裏側を下って来たところ、ふと聳え立つ城の壁に所々穴があるのに気付いた。何のためだろう?水路ではない。空気穴だろうか。それにしては大きい。
ちょうど係員が通りかかったので尋ねてみた。
「トイレだよ。昔は小便も大便も真っ逆さまに落ちていったのさぁ。」
そして直接、植物の肥しになっていったというわけか。大胆な中世の設計だ。
最後に知られざる中世お城物語の現実を垣間見たようで楽しくなってしまった。

2011/04/21

犯人は極上の毛皮

桜の花が散り、眩しい新緑の葉が木々を覆い始めた。木の下に注ぐ太陽の光もいつの間にか柔らかな木漏れ日に変わっている。冬の間味気なかった芝生やクローバーも日々元気良く伸び始めた。
そうしたある朝、庭の芝生のあちこちが荒らされているのに気付いた。イノシシの仕業と同じく芝生を土ごとひっくり返されているのだが、イノシシほどダイナミックな大きさではなく、縦横3~4センチほどの大きさ。だがその数は半歩ごとに数え切れないほどで、棒を差し込んだような穴もある。いったい何者だ?

カラスか?鳥にしては穴が大きすぎる。モグラか?土の中から出てきたようすはない。狐か?狐は芝生を荒らさない。栗鼠か?栗鼠は可愛すぎる。鹿か?柵から入って来れない!
恐らくMartre/マルトルだろう。だが、そう言いながら隣人は皆あまり信じていない。マルトルは森の動物だよ。

犯人は誰だ?
 犯人が分からないまま数日荒らされ続けた。どうも夜来るようだ。外灯をつけたままにしてみた。明りを避けるかもしれない。
10時ごろ、ふとガラスドア越しに外を見ると5mほど先に動物が芝生を嗅ぎ回ってる。外灯の薄明かりではっきり見えないが猫より少し大きめ、犬より小さい。長いしっぽがふさふさしているようだ。鼻の部分が少し尖がっているようで「あらいぐまラスカル」を思い出した。
「でた~!」人間の気配に気付いたようだが、その動物は慌てる風でもなく、淡々と消え去った。
私の描写から、やはりマルトルだろうということになった。だが厄介な事に予防策がないそうだ。取りあえず柵の隙間を全て石や木で塞ぎ、イノシシ除けの髪の毛をばら撒いた。

さてMartre/マルトルとは?ふさふさしたしっぽが気になって電子辞書を引いてみた。日本語ではテン、イタチ科の動物だ。
森林に住み、よく木に登るとある。夜行性でネズミ、リス、小鳥、果実などを食べる。毛皮は最高級品とされているらしい。確かに薄暗い中でも毛並みの良さは印象的だった。木に登るということは、柵の隙間をふさいでも無駄ということか。そして何よりも気になったのは、最近、お馴染みリス君たちの姿を見なくなったことだ・・・やられてしまったのだろうか?

案の定、昨晩また入って来たようだ。満月の光に照らされて、芝生の下に何を探しているのか不可解だ。日本ではテンは化けるとも言われているらしい。
「狐七化け、狸八化け、貂(テン)九化け」
何かの化身かしらん?全く別の好奇心が湧いてくる。

何かと物騒がせな春である。

追加)農家の方に知恵をいただき、いただいた犬の毛を撒いてみたところ、来なくなった。
   イノシシには人間の髪の毛、テンには犬の毛が効くようだ。

2011/04/17

ベルリン会議とアフリカ

1912年のアフリカ
Wikipediaより
ベルリン会議という国際会議が1884年11月から1885年2月にかけて、ドイツの首都で開催された。参加国はドイツ帝国、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、イタリア、オーストリア、オランダ、スペイン、デンマーク、スウェーデン、アメリカ合衆国、ロシア帝国、オスマン帝国の計14カ国。アフリカのコンゴ植民地化をめぐり、ベルギーとそれを支持するフランスに対し、ポルトガルとそれを支持するイギリスの対立の収拾が図られ、また「アフリカ分割」の原則が確認された。以降アフリカを植民地化する場合は、ベルリン協定調印諸国にその内容を通告し、会議で確認された原則を遵守するべしとなる。尤もらしいが、このアフリカ大陸に関する国際会議にアフリカからは一人も参加していない。参加国代表のほとんどは、アフリカに1歩も足を踏み入れたことがなく、アフリカ人は「黒い生き物」として、研究の対象としか見なされなかったらしい。結局ベルリン会議は列強国のアフリカ植民地化を更に進めることになり、1912年までにリベリア、エチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7国(スペイン、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、ポルトガル、ベルギー)によって分割支配されたのだった。

ちょうどチュニジアが自由の歓喜で沸き上がった頃、TVの特集番組で、私は初めてベルリン会議のことを知った。列強国とは何とも勝手な事をしてきたもんだなぁと思う。今回アフリカに連鎖して起こっている革命で、早速チュニジアからイタリア南部の島に大多数の難民が押し寄せ、イタリアをはじめヨーロッパ各国は冷や汗をかいている。ヨーロッパ諸国にとって移民難民の問題は年々深刻になるばかりだが、冷静に考えると因果応報かとも思えてしまう。アフリカだけではない。南北アメリカ、オーストラリア、アジア、中東、列強国は植民地を広げることで列強を保ってきたとも言える。ふと、開国を迫られ明治維新に突入していった日本に思いが走った。列強国にとって日本人はどう映っていたのだろうか。

ベルリン会議の頃の日本の歴史をみると、
1882年(明治15年) 
伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパを訪問。
1884年(明治17年)
華族令を制定し、華族制度を整える。
1885年(明治18年) 
太政官制を廃止し、内閣制を導入。
初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任。
新設された枢密院の議長にも就任。

また外務卿・井上馨による欧化政策で、欧米諸国との交渉を有利に運ぶため、風俗や生活様式の西洋化が進められる。1883年(明治16年)には日比谷に「鹿鳴館」が建設され、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれていた頃だ。

アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、列強国同士が牽制し合う中、アジアの一国、明らかに近代化に遅れを取った日本が外交を進めていくのは、今以上に大変だっただろうと思う。時の運もあったかもしれないが、よく植民地にされずにすんだなと思わずにはいられない。
その理由は色々あるようだが、実は日本と全く関係ないアフリカ分割が理由の一つでもあるようだ。列強国がアフリカ陣取りに忙しくなり、遠い島国、簡単でもなさそうな日本に手を回す余裕がなかったから、らしい。

あれやこれやと調べているうちに、欧化政策の面白い背景をWikipediaで見つけた。
以下そのまま書き写す。
井上馨は度々ヨーロッパを視察して、現地では日本人が「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという事実に気づいていた(事実、欧米での初期日本研究は文化人類学・民族学の範疇に属しており、自分たちとは違う人種として研究対象とされていたのである)。井上と伊藤博文らは日本人がこうした扱いから免れるようになるためには、欧米と同じ文化水準である事を海外に示さない限りはまともな外交交渉の相手としても認められないという事実に気づいていたのである。

やっぱり「黄色い生き物」だったようだ。列強国にとってはアフリカ人もアジア人も「生き物」でしかなかったのが現実だろう。
だが実際には当時の日本人、文化が違い文明が遅れてはいても、考察力の鋭さと先見の明は列強国並だったのではないだろうか。だからこそ日本は難しい外交をきりぬけ、近代国家の道を驚くほどの速さで歩いてこれたのではないだろうか?
そして何より明治維新前後に活躍したリーダーは、それぞれが日本国のためを思い、日本国のために集中した。私利私欲などなかったのではないだろうか。

これからアフリカの国々に必要なのは、私欲は別にして、国のために考え行動出来るリーダーの出現だと言われている。そうでなければ民衆の勇気は無駄になってしまう。だがこれはアフリカだけでもない。世界中かつて列強国と言われた国々ですら、政治も経済もそんなリーダーが不足しているように思えてならない21世紀だ。



2011/04/11

ランチタイム

お惣菜屋
アルザスは昼の12時から2時まで駐車場が無料になる。ランチタイムだからだ。初めて知った時、口があ~んぐりして、流石フランス、食事への意気込みが違うと思ってしまった。2時間の昼休みというのも日本や、ヨーロッパでもイギリスでは考えられない。サンドイッチの国イギリスでは仕事をしながら、歩きながら昼食を済ませる人が多い。フランスでは違う。昼時のレストラン、週日はMenu du jour/ムニュ ドゥ ジュールといって日替わりの前菜、メイン、デザートのコースがあるが、これに別料金でもコーヒーで締めるのが通常だ。食事にワインは当然。気分がいいと食前酒もとなる。Menuが地方でも最低10ユーロする最近の物価高だ。水、ワイン、コーヒー、チップと合わせると外食は毎日の昼食にお手頃とはいい難い。それでもしっかり食事を取らないと、しっかり仕事が出来ないようだ。レストランはどこも人でいっぱいになる。


マーケットのサラミソーセージ
多くの人は自宅へもどって家族で昼食を取る。職場から学校から、昼は一旦家に帰って2時間後また戻って来る。だからフランスの渋滞は日に4度となる。学校には給食があるにはあるらしい。ただ利用する人がそれほどいないとか。いったい家で何を食べているのだろうかと不思議になってしまう。
私は日本で勤めていた時、45分間の昼休みで充分だった。昼食はいつも軽めにしていた。そうでなければ午後眠くなってしまう。その分夕方早く帰れるほうが嬉しい。フランスでは昼が長い分、夕方は早くても6時までが通常だ。非効率なだけではない。昼時の車移動を止めればCO2も減って環境にも良いし、経済的節約にもなるのではないかと思う。アルザスの皆さん、弁当持参に変えてはいかがでしょう?同僚やクラスメイトとのコミュニケーションを取る良い機会にもなる。12時、学校迎えや昼食支度に職場から猛スピードで走り去るお母さんドライバーを見送りながら、大変だなぁ・・・お弁当の方が楽だろうにと思っていた。

チーズ店
そうしたところ、最近弁当グッズが人気を集めていると雑誌に載っているのを見つけた。不景気の影響で昼食のレストランを弁当に切り替える人が増えてきているらしい。その名も「BENTOU」と日本語が使われていた。グッズは日本式色とりどりの弁当箱やおしゃれな布ナプキン、ケースに入ったフォークや箸。弁当メニューも写真付きで載っていた。やはりフランスだなと思ってしまったのがその内容だ。弁当箱は3段。別にチーズやデザートやヨーグルト。雑誌とはいえ豪勢なBENTOUの中身だった。「BENTOU」でも食に手抜きをしないフランス人気質だろうか。不景気だからこそ、しっかり食事は取らないといけないのかもしれない。

だがこんなお弁当を作ってしまった日には、仕事どころか花見にでも行きたくならないかしらん?

2011/04/08

花まつりと復活祭

4月8日は釈迦の誕生日、仏教行事として「花まつり」が行われる。仏教国日本だが、12月25日キリストの誕生日ほどは知られていない。私も高校時代、仏教委員などが回って来なかったら、すっかり忘れていたと思う。「花まつり」は宗派に関係なく、春の花で飾られた花御堂の中、甘茶で満ちた灌仏桶の中央に立つ誕生仏に、柄杓で甘茶をかけて祝う。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来するらしい。私の通った仏教高校でも、礼拝堂(らいはいどう)の舞台に花御堂が設置され、クラスを代表して甘茶をかけるのが仏教委員の役目だった。小さな行事だが、花に囲まれてすっくり立ったお釈迦様がいつになく愛らしく思えた。甘茶の味を初めて知ったのもこの時だ。散りかけた桜と「花まつり」、釈迦の誕生日が記憶の中で結びついてしまった。

ヨーロッパではちょうど同じ頃がEaster/イースター(復活祭)だ。十字架にかけられて息絶えたイエス・キリストが、三日目に復活したことを記念する祝日。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」にあたるため、毎年日付が変わる移動祝日で、2011年は4月24日。例年より遅めだと思う。
カーニバルの終わる火曜日の翌日、灰の水曜日からを四句節といい、肉、乳製品、卵を絶つが、イースターがその解禁日だ。だから食卓には動物性食品、卵・バター・乳をふんだんに使ったケーキやお菓子、いわゆるご馳走が並ぶ。イースターは宗教行事以上にホリデーとしても、人々の楽しみになっている。日本のゴールデン・ウィークの感覚だろう。旅行に出かけない人は、家でのんびり美味しいものに囲まれて過ごす。この時期はスーパーもスペシャルな美味しい物で活気づく。フォアグラや子羊、子牛、各種ソーセージ、などなど。お菓子コーナーにはイースター・エッグのチョコや、生命の躍動が象徴とされるウサギのチョコで賑やかだ。

フランスはカトリックの国だが、最近教会離れが続いている。
伝統としての宗教は受け入れるが、個人的には信じていない人が周りにも多い。聖職者の信者を裏切るような不祥事が続いたせいで、システムに批判的な人もいる。
宗教を聞かれると私は「大多数の日本人と同じくBuddhist/仏教徒です。でも宗教というよりは、むしろ哲学として受け入れている。」と答えることにしている。
フランスでは仏教は哲学と見なされる。フランス語の学校で、初めてこのことを習ったときは少々驚いたが、私はこの考え方がとても好きだ。哲学だと他宗教の人々にも寛容さを与える。実際に仏教は他宗教を否定しないし、「我々の神を信じろ」ではなく「自分自身を見つめろ」だから、宗教というよりは哲学かもしれない。それもあってか、フランスでのダライ・ラマの人気は絶大だ。ここ数年来ZENブームだったりもするので、仏教について興味のある人は増えていて、日本人である私に質問が飛んでくることもよくある。有難いことに高校時代、仏教や倫理の授業で習った基本的なことが大変役に立っている。
(こんなことなら居眠りなどせず、もっとちゃんと聞いておけば良かった。だが桜並木の見える窓辺の席はあまりに気持ち良すぎた。)
当時は全く無駄な授業だと思っていたが、何十年も経って、フランスで役立つとは夢にも思わなかった。仏教校を選んだわけではもちろんない。第一志望を落ちたから仕方なく行っただけだが、これも何かの縁、仏の導きだったのだろうか?

人生、無駄なことってないもんだなぁ。
花まつり、復活祭の4月、生命の息吹の中でこう感じるのだった。

2011/04/04

Ecomusée d'Alsace/エコミュゼ アルザス

Ecomusée d'Alsace/エコミュゼ アルザスは「最後の授業」の頃のアルザスがそのまま体験できる、空の下のMusée/ミュゼ(博物館)だ。広がる青空、ぽかぽか春の陽気で野の花が一斉に花開き、桜やマグノリアの硬かった蕾も刻々とほころんでいく。動物達も嬉しそう。ついつい学校をサボってしまっていたフランツ少年の気持ちも理解できるに違いない。

エントランスを潜ると何よりもまず、大きく伸びをしたくなる。そこは百年以上昔のアルザス。車もコンクリートもない世界だ。耳を澄ませば小鳥の歌声とコウノトリのクラックラックラッ、それに答えるように何処からか牛の声が響いてくる。自然と歩調もゆっくりになる。

1989年にオープンしたこのエコミュゼは、新築のために取り壊されていく昔ながらの建築を惜しみ、何とか保存したいと数人のアルザシアンが空き地に移設したことから始まったものらしい。現在ではアルザス中の古い建築(中には15世紀に遡るものも)が70件集められた100ヘクタールもの広さの中、ハーブ園や野菜畑があり、牛やロバやヤギなどの家畜もいて、パン屋や加治屋、散髪屋もある「生きている博物館」で、フランス、ヨーロッパ中から多くの人々が訪れている。

鍛冶屋では職人が、真赤に焼けた鉄を炉から取り出し、トンテンカンテン打ちながら素早く形をつくっている。これはデモンストレーションでもあり、見学者の質問には何でも愛想よく答えてくれる。職人の多くは地元のボランティアらしい。
角の小さな建物の前には、理髪店の円柱サインが立っていた。中に入るとまるで映画から抜け出てきたような主人が髭剃りナイフを研ぎながら、あごを泡で包まれ仰向けに座っている客に向って話しかけていた。志望者に髭剃り体験をさせているところだった。
農家の一角には牛や山羊が住んでいて、時間が来ると乳搾りが始まる。見学の人だかりに緊張したのか、牛のMaitala/マイタラ(アルザス語で小さな女の子)は注目を集めた途端、尻尾を逆立て思いっきりおしっこを飛ばし始めた。ダイナミックさに笑いが起こる。なかなか止まらないがこれも愛嬌。乳絞りの女性はうろたえる事もなく愛牛の用が済むのを待ち、慣れた手つきで乳をほぐすとリズム良く絞り始めた。調子が出ると見学の子供達に変わって体験させる。子供達はおずおず慣れない手つきだが、マイタラはそれでも気持ちよさそうにおとなしくしていた。
桜が満開になった家の中では若々しいおばあちゃまアルザシエンヌが野草のスープを作り、試食と共に材料の色々な野草の説明をしている。香りは野草のハーモニー、口にした途端体中が喜んでいるのが分かるようなスープだった。おばあちゃま曰く、森や野原に行けば何処にでも生えている野草、こんなスープを食べていたら病気なんかしないのよ!そうだろうなと見学者一同納得だ。
明るい黄色の壁の家、ふと裏に回ると大きな孔雀が散歩していた。ツンと頭を上向け「私をご覧!きれいでしょう」と気取った姿、カメラを向けられているのも充分承知のようで、私が主人よ!といった感じで立っていた。その鮮やかな美しさには脱帽だが、エコミュゼの主人公と言えばやはりコウノトリだろう。
木組みの家の屋根にはあちらこちらに大きな巣があり、アルザスの主人公達は気ままに飛んだり、散歩したり、巣でくつろいだりしている。百年以上昔と同じ光景だ。

ミュゼ内にはアルザス料理が味わえるレストランもある。またパン屋では昔ながらの方法で釜を使って焼いている。その味の良さにエコミュゼまでパンだけを買いに来る客もいて、夕方には全部売り切れになる。スタッフがパンを家に買って帰れたことがないと得意げに嘆いていた。ここのタルトフランべ(アルザス風ピザ)も絶品だ。

産業革命以降も文明は発展し続け、その急速さは増すばかりだ。田舎でも砂漠でも携帯が繋がり、PCが使える便利な現代だが、だからこそ、たまには文明のバイブレーションのないところで体と心をのびのびさせたい。歩き回って動物とふれ合い、小さな自然に目を向けてみると日頃忘れていたシンプルな感情が戻ってくる。そんな1日の後は何も考えずにぐっすり眠れる。結局それが人間にとって一番の幸せなのかもしれない。

2011/04/02

アルザスにも!

これまでアルザスについて、自然と街の美しさや長閑さを色々紹介してきた。ところがこのアルザスの情況を、日本の「FUKUSHIMA」が変えてしまった。今近隣国から「危険極まりない」と非難され、デモも起きている。アルザスのHaut Rhin/オ・ラン県(ライン川上流)、Fessenheim/フッセンハイムという村に、フランスで最も古い、1977年から稼動しているCentrale nucléaire de Fessenheim/フッセンハイム原子力発電所があるからだ。Mulhouse/ミュルーズから15Km、スイスのBasel/バーゼルから40Km、ドイツのFreiburg/フライブルグから20Kmというアルザスでも大変身近な地域に、である。観光、ショッピング、食べ歩きには便利で魅力的な国境沿いという利点、原発の危険性から見ると確かに「とんでもない」。しかもバーゼルはスイス第3の都市、大手薬品会社の本社もある。一方フライブルグはドイツが誇る環境都市で、近くにはバーデンワイラーをはじめとする温泉保養地もある。
 
フランス・ミュルーズ
福島第1原子力発電所の事故を受け、ドイツのメルケル首相(キリスト教民主同盟/CDU)は3月15日、ドイツの原発17基のうち、1980年以前に稼働を開始した7基について、当面運転を停止すると発表した。安全性を再点検するためとしている。それでも3月27日の州議会選挙ではCDUが惨敗し、環境政党、緑の党が大きく躍進する結果となった。
スイスでは現存する原発5基の稼動期間が近年中に終了するため、それらに代わる新しい原発の建設が計画されていたが、連邦議会は3カ所の原発建設計画を未だ議決しておらず、2013年に国民投票が予定されている。

原発に78%の電力量を頼るフランスでは、現在のところ特別な政策が出されていない。フランスは日本の地形と異なるので、地震、津波のような惨事は起こり得ないということだ。日本から流れてくる放射能の為、薬局で放射能薬(副作用大)の売切れが続くフランスの割りには呑気に思えるが、政策となると別のようだ。それでも3月27日に行われた仏統一県議選の決選投票では、野党の社会党が票を伸ばし、環境保護政党が原発に対する懸念の追い風で議席倍増になった。このような状況下、アルザスでは相変わらず与党の国民運動連合(UMP)に票が集まってしまったので、隣国の反感に繋がっている。

ドイツ・フライブルグ
ドイツにおける原発の電力量は全体の約23%、スイスは40%で、閉鎖すると40兆スイスフランの損失が出ると算出された。ちなみに日本は27%。

私は以前、ライン川沿いのフッセンハイム原発所のそばを通りかかったことがある。アルザスに原発があることは知っていた。「あそこのムッシューは長年原発で働いていたんだよ。もう定年になったけどね。息子はまだ働いてるよ。」なんて話は日常の会話にも出てきていた。原子力にヒヤッとはするものの、原発は原子爆弾とは別、核とはいえ平和利用であり、技術は常に進んでいる、事故は起こらないと信じれていた。そのため原発で働く人々は安全を第一に、それぞれの仕事に責任と誇りを持って臨んでいる。チェルノブイリは?となるが、20年前のソ連で起こったことだから・・・。確かに私は無知の楽観者だが、フランスも日本も大多数がそうだったから、これまで原発が突っ走ってこれた現実もあるのではないだろうか。事故は起こり得ない。起こっても大惨事には成り得ない。

フランスは日本と地形が異なると言うが、ライン渓谷は地震地帯で、1356年にはスイスのバーゼルで大地震が起こっている。起こるはずのないことが起こり続ける昨今の地球現象だ。千年に一度が明日かもしれない。人為的事故は人間の力で防げても、自然災害による事故の前で、人間はこんなにも無力になってしまうのか。「FUKUSHIMA」は世界にそれを見せつけた。

スイス・バーゼル
だからといってどこの国であれ、それでは原発は止めましょうと簡単に廃止出来るものでもないとは思う。その費用、雇用問題は大きい。原発に換わるエネルギーにもプラス、マイナスがある。それに加えて政治的、経済的駆け引きが各国それぞれにあるわけだから、原発廃止が実現するとしても、まだまだ何年もかかることだろう。

これからは、原発の危険性を唱え反対するだけでなく、それに換わる新エネルギーの開発だけでもなく、かかる費用、比較数値、新雇用の見込み、跡地利用など、もっと具体的な提案が求められるのではないだろうか。ドイツでは既に活動が盛んだ。そして初めに実施した国が成功すれば手本となり、世界に広まっていくのだろうと思う。日本は被災国、原爆経験国でもある。依存率も27%とドイツに近い。新エネルギー技術は充分だと信じる。何とか初めの原発廃止実施国になれないものかと夢を持ちたくなる。そのためには技術者、政治家、経済界、民衆の私欲を超えた連携プレーが必要だ。
同時に電力の無駄使いも見直すいいチャンスだと思う。24時間ギラギラ輝き続けるネオンサインはそろそろ止めてはどうだろう?人々の気分もより落ち着けて、夜空の星が見えるようになるし、小さな節約が集まれば大きな数値になる。

アルザスや日本だけではない。この美しい地球の未来のため、現代に生きる私達が、
どげんかせんといかん!と思い始めた。