2011/05/27

Rose Garden/薔薇園

「空」は土地それぞれ、季節や時間、天気によって色が変化するが、
結局は限りないひと続きの宇宙である。

哲学などではない。タイトルを変えずにブログを続ける為の単なるこじつけ。空の色はいろいろとすると、アルザスに限らず、日本やこれまで訪れた国のことなども気ままに書いていけるなぁと思ったのだ。

実家の傍に町立の図書館がある。ちょっとした小川の流れる庭もあって、小さな子供連れや、犬の散歩途中のホッと一息出来る場所になっているようだ。小川沿いには手入れの行き届いた薔薇が植えてあり、この季節は色とりどり華やか、風に乗った甘い香りに思わず足を止めたくなる。

薔薇といえば、初めてのロンドン旅行で訪れた、Regent's Park/リージェンツ・パーク内にあるQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンを思い出す。6月の初め、薔薇が満開の季節だった。
今年は英国ウイリアム王子の結婚が大きな話題になったが、ちょうどその年、私達のロンドン滞在中には、日本で徳仁皇太子の結婚式が行われた。婚礼当日が国民の休日となったため、プラス3日の年休と土日を合わせ、6日連休で飛べたロンドンだったのだ。当時の会社では、海外旅行の為の連続年休などまだ一般的ではなかったから、3日の年休の承諾を得るのに、辞表覚悟の意気込みだった。意外にも快く了承され、「世界を見るのは良いことだ。ロンドンか。くれぐれもスリには気をつけるように。」と気難しい上司に言われたときには、狐につままれたような心地だった。
グローバルという言葉が飛び交い、日本はバブル景気の余韻でまだ機嫌が良い頃だった。

会社の別の部署にいた同期と学生時代からの友人と女3人、楽しくて楽しくて興奮しっぱなしの旅だった。リージェンツ・パークの芝生に座ってサンドイッチのランチ。そんなことが夢だった。自由に街をぶらぶらしている自分達に酔いしれた。ロンドンは街の中心のあちらこちらに公園があり緑が豊富だから、どこか雰囲気もあくせくしていなくて、初めてでも馴染みやすい。事前にガイドブックを読みあさり、行きたいリストをそれぞれ出し合って計画を立てたのだが、その中のひとつがQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンだった。
まるでこのガーデンを訪れるために狙って日本から来たかのように最高の見頃で、公園中、花壇も垣根もベンチの上にかかったアーチも薔薇で埋め尽くされていた。イギリスらしい曇り空の下、薔薇の花もヨーロッパの女性のごとく、円熟の美を醸し出しているように思えた。その中で私達はまだまだ薔薇より団子、若く青く、ピカピカしていて元気が良かった。

さて、メアリー女王のバラ園にも負けないバラ園が、アルザスにはないが、ここ粕屋町の駕与丁公園にある。あらゆる種類の薔薇2300株が池を望む高台に集められていて見事だ。細やかな手入れはボランティアの手によるものらしい。立体感のある場所なので、「薔薇に埋もれる」感じが味わえる。住民でありながら知らなかったが、薔薇は粕屋町の町花でもあるらしい。
アルザスはあまりに遠いので簡単に言えなかったが、粕屋町なら日本国内、一度お越しになりませんか?

2011/05/21

さようならアルザス、またいつの日か

アルザスを離れ、日本に帰国した。

初夏の最も美しい季節だというのに残念だが、欲ばかり言ってはいられない。
もっと早くブログを始めていればよかった、アルザスについてもっともっと色々なことを書きたかったと後悔しても仕方ない。

32時間かけての移動、流石アルザス━福岡は遠い。
だが一方で世界が小さくなっていることにも気付いた。インターネットのお蔭だ。今も私は福岡の実家でアルザスのラジオを聞きながらPCに向かっている。今回の移動にもこのネットが大活躍だった。

これまで海外でフライトチケットを取る場合、各国の日系旅行会社を探して電話で予約をし、出向くか、遠い場合は振込みをして送ってもらうかをしていた。日本行きの場合はそれが一番安い方法でもあった。ところが今回ネットで色々調べてみると、フランスの旅行会社や航空会社のHPから日系旅行会社と同等、もしくはよりお得にチケットがネット購入出来るのだ。振込み、郵送という手間や時間もかからない。PCとクレジットカードとプリンターがあれば、明日のフライトチケットでも購入できるという便利さなのだ。それで今回私は一番お得だったカタール航空、PARIS━関空 ドーハ経由 片道456ユーロを使ってみた。中東の航空会社大丈夫なの?なんて心配することなかれ。カタール航空は10年ほどの新しい会社だが、飛行機はどれも新しく、食事、サービスも申し分なかった。何より乗り継ぎの待ち時間がなく効率的。今目覚しく伸びている航空会社だ。

PARIS━ドーハ便で、はじめ私の隣にオリジナルアフリカのフランス人青年が来た。座席番号を確認して座るなり、彼は周りを見回し、ゆっくり眠りたいから広く使える席に移るつもりだと、片言の英語で言った。
「乗客はそれほど多くなさそうね。私も2席分ゆっくり出来るから有難いわ」と言うと「なんだフランス語分かるの」とホッとしたように言った。ドーハ経由で私と同じく大阪に行くらしい。
「この状況下、多くの人が日本から去ってるというのに何のために日本に向かうの?」
「でも君もじゃない」
白い歯むき出し茶目っ気たっぷりの笑顔に、私は彼が日本中チェルノブイリだと思ってしまっている一部のフランス人とは違うことを察した。ダンスのオーデションを受けに行くらしい。バレエダンサーには見えない。尋ねるとヒップホップだと答えだ。受かったら日本に住むことになるそうだ。
「親や友達は心配したけどね。放射能は大阪まで来ないから大丈夫だと思うんだ。地震は・・・その時はその時さ」
「関西には弟や友達が住んでるけど、大丈夫よ。あなたの勇気、日本人として嬉しいわ。オーデション受かるといいわね。Bonne chance!/幸運を祈ってるわ」
「Merci./ありがとう」
彼は嬉しそうににっこりすると、空き席を見つけて移動していった。私もゆっくりとリラックス、ミュルーズから3時間半のTGV/フランスの新幹線移動の後でもあり、目を閉じると離陸を待たずして眠りについてしまった。

2011/05/16

アルザス料理

アルザス料理と言えば、まず最初に出てくるのはChoucroute/シュークルートだろう。ドイツ語でSauerkraut/ザワークラフトといい、ドイツ料理でもある。意味は「すっぱいキャベツ」。乳酸発酵により酸っぱくなったキャベツの塩漬けで、ビタミンCが豊富。酸っぱいが酢は使われていない。 通常レストランでは
La Choucroute Garnie /シュークルート・ガルニと言って、この「すっぱいキャベツ」の上にソーセージやベーコン、ポテトなどが豪快に乗って出て来る。果実味の強いアスザスワインやビールとよく合う。
キャベツを繊切りにし、塩、白ワイン、香辛料と共にかめに入れて漬けるというシンプルな方法だが、ワインや香辛料の違いにより、各家庭やレストラン独特の味になるようだ。と、ここまで書いておきながらだが、私はアルザスに来て長い間、シュークルートを食べたことがなかった。酸っぱさが苦手で、ソーセージやベーコンもシンプルに蒸し焼きしてあるだけ、ソースがかかっているわけでもないし、アルザスにはもっと美味しい料理が沢山ある。

シュークルート 例
ある日、ムッシュー・シュラフのレストランで日替わりランチを頼んだら、その日はシュークルートだった。初体験にはもってこいのレストラン、運ばれてきた皿を見ていつものことながら吃驚。日替わりランチだからと手抜きはない。山盛りの温かいすっぱいキャベツに白いソーセージ、黒いソーセージ、サラミ、ベーコン、ハムが気前良く盛ってある。こんなに一人では食べれない・・・ところが今度は我が胃に吃驚。キャベツの軟らかい酸味のお蔭で、するすると重い肉の塊が吸い込まれるように入っていくのだ。ムタード(西洋からし)の辛さがこれまた良く合う。結局平らげてしまい、アルザス料理と言えばシュークルートと言われる所以が、何だか分かるような気がしたのだった。


フライシュナーカ 例
 さて、私のお気に入りアルザス料理はFleichschnacka/フライシュナーカという料理だ。
ハーブや香辛料を入れた肉のミンチを生パスタでロールし、輪切りにしてフライパンで焼き、牛の髄でとったスープにつけたもの。
サラダが付け合せになる。
一度友人宅でフライシュナーカの手料理をご馳走になったことがある。アルザスを離れる前のことで、友人が郷土料理をと腕によりをかけてくれたのだった。同じフライシュナーカでもミンチに入れる野菜やハーブ、香辛料によって家庭それぞれに伝統の味があるそうだ。今でも忘れられないほど美味しかった。
彼女の父親は2年前にこの世を去ってしまったが、長年Boulangerie/パン屋を営んでいたらしく、引退して80歳近くになってもタルトやクッキーを作るのが好きで、良くいただいた。厳しい時代のアルザスを生き抜いた世代だが、いつも優しいジョークで周りを和ませてくれる人だった。
彼女がその日デザートに出してくれたForêt Noir/フォレ・ノア-ルの美しさ、美味しさはこれも格別で、流石ロベールの娘さん、こんなに美味しい「黒い森」は初めてと褒めちぎったら、彼女もうれしそうに笑って、もう一切れいかがと勧めてくれた。

フランスでは仲良くなると、家庭へ食事に招待される機会がよくあるが、それぞれの家庭の味、地方の味と共に、もてなしの心と楽しい会話がいつも食事を更に美味しく彩ってくれ、レストランでの食事とはまた違う味わいの時が皆で楽しめる。

2011/05/11

パリVSアルザスのレストラン

学生時代の女友達4人、初めてのヨーロッパ、パリに旅行した時のことだ。まだ20代前半だった。夕食に美味しいフランス料理が食べたくて、現地日本人ガイドさんにオススメを尋ねた。頭には映画に出てくるようなビストロを描いていた。
「どこか美味しいレストランご存知ありませんか?」
「そうねぇ、美味しいって言えば私は時々Ritz/リッツに行くわ。味はなかなかよ。」
幸いなことに私達4人とも、当時はお菓子のリッツクラッカーしか知らなかった。
「リッツって、どうやって行ったら良いのでしょう?」
「4人なら、ホテルからタクシーが便利よ。運転手なら誰でも知ってるから簡単よ。」
美味しくて、簡単に行けるならそこにしようと全員一致、夕食はリッツへ行くことにした。
頭の中ではパリのビストロ、狭いテーブルの間を長いエプロン姿のギャルソンがお盆を掲げて颯爽と歩いてた。タクシーが高級ホテルの前に止まると、戸惑った私達は確認のため、
「レストランのリッツなんですけど~」運転手はここだよとブスッと言った。
来たからには、と4人で勇気を出してレストランに入った。「ご予約は?」勿論ない。
だが時間が早かったため、テーブルをつくってくれた。目を見張るような豪華な内装。
スゴーイこれぞパリ。だが困ったのはメニューを見たときだ。最低のプチコースが当時の計算で約1万円だったのを覚えている。まだクレジットカードは持ち歩かない時代のこと、まず4人テーブルの下でこそこそ、持ち現金フランを確認しあった。良かった。何とかプチコースと水なら4人分オーダーできる。皿洗いをせずに帰れると思うとほっとして、途端に楽しくウキウキになった。
料理に何が出てきたかは覚えていない。ただ、どれもとても美味しかったこと、ワインでなく水にもかかわらず、食事中給仕が二コニコと良いタイミングに来てくれて、各グラスに少しずつ注いでくれたのを覚えている。「来たぞ来たぞ日本人の若い女の子、最近パリに増えたよなぁ」と思われていただろうが、見下した素振りは全くなかった。自然で上品なサービスは今だにいい思い出になっている。トイレも広くて豪華。興奮して写真を取りまくり、4人ともすっかり「リッツ」のファンになった。シャネルが晩年住んでいた、パリでも伝統ある超高級ホテルだと知ったのは、帰ってきてからのことである。今から思えば、気取った意地悪な現地のガイドさんだった訳だが、その意地悪が私達には通じず、お蔭でまたとない楽しい時が過ごせたのだから、今はその意地悪に感謝している。

さて次は、パリのリッツにも負けないアルザスのレストランを1つ紹介しよう。
その名は「Metzgerstuwa」。残念ながらこのアルザス語の発音、何度聞いても分からない。一般にはオーナーの名前、ムッシューSchluraff/シュラフのレストランと言っている。Mulhouse/ミュルーズとColmar/コルマールの中間にあるSoultz/ソゥルツという村にある。横は肉屋さんで同じ経営だから、レストランが美味しく値段もリーズナブルなのが納得出来る。レストラン内は部屋が複雑でいくつもに分かれている。空席情況により案内されるが、螺旋階段を登ったり、部屋を横切って奥の階段から3階へ案内されたり、時には調理場を通り抜けたりもするから面白い。食べる前にキッチンの様子が見れるわけだ。それだけにとても清潔で、調理人も多く皆忙しそうだが、いつもにこやかに「ボンソワール!」
料理はアルザス郷土料理でどれも美味しくボリュームがある。最近1/2サイズができたが、それで普通の1人前ぐらい。食事の前のアミューズと最後に出てくるアルザス特産、アルコールの強い果実酒シャナップはレストランのおもてなしだ。時々体重200キロのムッシュー・シュラフが各テーブルを挨拶に回って来る。「こんばんは、食事楽しんでくれてるかい?足りなかったら遠慮しないで言ってね。お代わりあるから。」優しい目をした気さくな人で、大きな体はいつも機敏に動いている。ブタのコレクターでもあり、レストランのあちこちにブタの絵画や置物などのコレクションが飾られている。実はこのムッシュー・シュラフ、レストラン以外にも長年の料理キャリアを活かした色々な活動をしていて、全国版TVにも何度も出演しているそうだ。大きな体と人懐っこいキャラクターはどこでも人気者間違いなしだ。
最近ではインターネットやガイドブックのお蔭で日本でもアルザスのレストラン情報が得られるが、未だ日本では知られていない「Metzgerstuwa」だ。
最後にフランス語ではあるが写真と雰囲気だけでも楽しめるので、素朴なHPを紹介する。

www.metzgerstuwa.fr

1)上の写真をクリックすると拡大されます。
2)右上のA la carte 、Les vinsをクリックするとメニューになります。
  写真付でないのは残念。
3)英語版は・・・出てきません。

2011/05/05

La fille de coeur/心の娘

ある日TVを付けると、シラク前大統領の娘という明らかにアジア人の女性がトークショーで話していた。養女らしいが母国が中国なのか、ベトナムなのか、日本なのかその時は分からなかった。養女になるまでのいきさつも全く知らない。だが、政界の大者が血の繋がりのない、人種の違う娘を養女にする、ちょっと日本では考えられないことだと思い、それだけに興味を持った。

その後暫らくして、あのトークショーに出ていたシラク前大統領の養女、Anh-Daoが書いた半生記"La fille de coeur" /「心の娘」を偶然本屋で見つけた。同じアジア人として親しみが湧く。思わず買ってしまった。内容は分かりやすい文章で、波乱万丈な人生が明るく笑いを誘うタッチで描かれていた。実は彼女、ベトナム難民だったのだ。フムフム。ベトナムはフランスの旧植民地、要人の誰かの娘を養女として迎えた(助けた)のではないかと頁をめくっていったが、私の想像は全く外れた。

彼女は教育者の娘として裕福に、フランスに憧れを持つ母親の影響を受けながらのびのび育つが、ベトナム戦争を境に、それまでアメリカ寄りで成功してきた父親の絶望、北と南というだけでのベトナム国内での差別の中、就職難、貧困と苦労を強いられ、とうとう難民として運を天に任すべく、家族と別れボートに乗り込み祖国を脱出する決意をする。

これまでベトナム戦争のことについては、映画やドキュメンタリーなどで少しの知識はある。だが良く考えてみると、これらは皆アメリカから見たベトナム戦争でしかない。ベトナム人から見たベトナム戦争は実際この本が初めてだった。

ボートはベトナムを脱出したものの、マレーシアの難民キャンプで2年待たされる。その間にも病気、死、飢餓が難民仲間を襲うのを目の当たりにし、それでも彼女は生きる希望を強く持ち続け、やっとの思いでフランスに入国、シャルルドゴール空港で歓声をあげ喜び合う難民の中、何故か一人泣いてしまう。その時、当時パリ市長だったムッシュー・シラクが通りかかり、彼女を養女にと決めるのだ。彼女自身、ムッシュー・シラクを知っているわけではないし、翌日本当に現れるまで半信半疑だった。1979年彼女は21歳。それからはやさしいマダムとムッシュー・シラクの養女としてのおとぎ話となる。

シラク前大統領の政治的な顔は別にして、養女を迎えた家族の父親としてのムッシュー・シラクと母親としてのマダム・シラクはとても温かく、思いやりの深い人だ。少し年下の実の娘達との分け隔てをしない心配りにも胸が熱くなる。また一言もフランス語を喋れない彼女への厳しい思いやり指導も心憎い。フランス人の大らかな人間愛だろうか。血にこだわる日本人の気質とは違う面があるように思う。

一般にもフランスでは、養子縁組にアジアやアフリカ、人種の違う子供を迎えるケースが増えている。それはそれで色々と問題がないでもないが、迎えた両親は肌の色や目の色の違う赤ん坊に「わが子」としての限りない愛情を注いでいる。

年齢を重ねるたび、自分に流れる血なるものを強く感じる今日この頃だが、血だけではない限りない愛情というものがあるのも頷けるし、信じたい。地球の裏側から来た子をわが子として迎える。そうすることで人間を一人救えるのならこんなに素晴らしいことはないかもしれない。とは言え、さて自分に出来ますか?と問われると、情けないが正直ノーとしか言えない。だからでもある。肌の色の違う子供をもつカップルを見かける度、素直に敬服し、その家族の末永い幸せを心から願いたくなってしまうのだ。

2011/05/01

Flaxlanden/フラクスランデン

家の前のとうもろこし畑を横切り、農道を永遠7kmほど歩き続けたところに隣町Flaxlanden/フラクスランデンがある。通常の散歩に往復14kmは歩く気になれないが、テン予防の犬の毛をいただいた農家がそこにあり、御礼を言いにハイキングに出かけた。
とうもろこし畑は土が耕されたものの、まだ種蒔はなされておらず見晴らしが良く、所々の畑は菜の花で一面黄色に輝いていた。農道は普通の車は立ち入れない。農作業の季節はトラクターや作業の人々の車が行き交うが、今はまだたまに散歩をしている人を遠くに見かけるぐらいだ。車の音も人の声もしない静けさが広がる畑の中、聞こえるのは小鳥のおしゃべりと、時々花から花へ飛び回る蜂の羽音のみ。何気なく道の脇に目をやると草の中に土筆が出ていた。ヨーロッパにはないと思っていたので、嬉しい発見だ。それでもフランスでは食す習慣がないようだ。雑草中の雑草の扱い。日本では独特の苦味が春一番の味として喜ばれているのに残念だ。

ようやくたどり着いたFlaxlandenは、お店といえばEpicerie/エピスリ(購買店)が一件あるだけの小さな村だった。家々の庭先には復活祭のデコレーションがなされていて、木の枝のあちらこちらにぶら下がったイースターエッグや木登りをしたうさぎのぬいぐるみがあどけなく、思わずシャッターを切りたくなってしまう。エコミュゼにあるような古いアルザス家屋にもこの村では人が住んでいる。
「横柱を見てごらん。年が刻まれてるから」
家の前で日向ぼっこをしていた住人が得意げに教えてくれた。1694年、300年以上前の家だった。
新築の家も村の外れに次々と建っていたが、そのどれもが色あせて見えるほど古い家屋には味があり、手入れは大変なのだろうが村の雰囲気に調和している。勿論ながらアルザス気質の手入れは完璧だ。
通りのあちらこちらには石造りの水槽があり、きれいな水が流れ出ている。こちらもよく見ると1763と石に彫ってあった。




 




     車を使うと行きつけのスーパーから10分ほどの、何ということはない小さな村、観光地などでは全くないが、畑の中を1時間歩き続けてたどり着くとこちらの気分のせいか、ワンダーランドに入り込んだような特別な気分になってしまう。
残念ながら農家の主は留守だったので、ありがとうのメッセージだけを残し、またのんびり菜の花畑の間の農道を帰路に向った。4月というのに初夏のように暑く、木陰に入るとほっとする午後、蜂の羽音が往路よりも大きくなっているように聞こえた。