2011/07/30

オーストリアへ ザルツブルク

子供の頃から憧れていた町、それがザルツブルグだ。それは1本の映画から始まる。
「サウンド・オブ・ミュージック」
母に連れられ、梅田の映画館まで見に行った時、私はまだ7歳だった。リバイバルにもかかわらず、映画館は立見が出るほどの観客だった。英語はもちろん字幕の字もよく読めない年だったが、解説は必要なかった。
私はすっかり映画の中に入り込み、トラップファミリーの子供達といっしょに、山の上の草原でドレミの歌を歌い、カーテンで作られたワンピースを着て、歌いながらザルツブルグの街を歩いていた。、映画が終わっても、すぐには現実に戻って来れなかった。
11歳の時、お小遣いで初めて買ったレコード(LP)は「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラック盤、何度も何度も、何度も聞いた。すっかり洋画好きになって、クラスメイトと2人、いつも洋画の話ばかりしていた。今のようにDVDやビデオがないから、映画を見たい時に見ることなんて出来ない。リバイバルで映画館に来るか、テレビで放映されるだろう「いつの日か」のチャンスを心待ちにするしかなかった。そうして見た映画は一つ一つ心に刻まれていった。

ザルツブルクは、私のような深い思い入れを抱く者の夢を裏切らない、いやそれ以上の町だった。シンボルである丘の上のホーエンザルツブルク城塞は内部の見所も多いが、塔の展望台から眺める町の景色にはうっとり時を忘れてしまう。
Salzburg/ザルツブルグ、「塩の城」という名の通り、岩塩鉱から産出される塩で栄えた町で、モーツァルトが生まれた地としても知られる。町の中心にある生家は見学することが出来、モーツァルトが使用した楽器や自筆の楽譜などが展示されている。

「サウンド・オブ・ミュージック」の話に戻るが、トラップ一家がナチスに反し、故郷オーストリアを亡命する前、合唱コンクールに出場する。そこで歌うのが「エーデルワイス」だ。最後には観客全員の大合唱となり、それはオーストリアの人々の愛国心の現れで、とても感動的なシーンだ。
映画「カサブランカ」でも同じく、モロッコ・カサブランカの酒場にいたフランス人が全員立ち上がり、ナチスを差置き「La marseillaise/ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)を歌うシーンがある。こちらも感動的。それで私はずっと「エーデルワイス」もオーストリアの国歌だと思っていたら、そう思っている人も少なくないらしいが、実は映画のために作られた1曲だったらしい。

Edelweiss, edelweiss,
every morning you greet me.
Small and white, clean and bright,
you look happy to meet me.
Blossom of snow, may you bloom and grow,
bloom and grow forever.
Edelweiss, edelweiss,
bless my homeland forever.



但しこの「高貴な白」という意味の高山植物エーデルワイスは、オーストリアの国花だそうだ。
国歌ならず国花だったという訳。何はともあれ可憐で気高い花であり、美しい曲である。

2011/07/23

オーストリアへ インスブルック

流石山国オーストリアだ。ブレーゲンツで難なく丈夫なテントを購入出来、もう1泊牧草キャンプをした後、私達はアルプスの山々に囲まれたInnsbruck/インスブルックに向かった。
車を下りてまず感じたのは空気が美味しいこと。
インスブルッグは15世紀末皇帝マクシミリアン1世の統治下で発展を遂げた、チロル州の州都である。旧市街にはゴシック様式の建物が続き、Erker/エルカーと呼ばれる出窓からは夏の花が鮮やか色合いを添えていた。
その合い間に見えるアルプスの連峰は太陽と共に表情を変える。洗練と自然が、独特な美の相乗効果をもたらしている古い都だ。

バーゼルに長年住む友人がいつも言っていた。インスブルッグはこの世で最も美しい街だ、と。
彼女はインスブルッグ出身だったから、私はずっと故郷びいきの言だろうと思っていたが、訪れてみて心から納得してしまった。街を流れるイン川も清らかな山川だ。インスブルックとは「イン川にかかる橋」という意味らしい。また近郊には、クリスタルで有名なスワロフスキーの本社がある。100年以上続く、オーストリアを代表するファミリーカンパニー。実はその友人のお兄さんがデザイナーとして長年勤めていたとかで、彼女の家にもスワロフスキーのクリスタルが沢山飾られていて、博物館のようねと言ったことがある。日本でも有名なブランドであることを知った彼女はそれが嬉しかったのか、ガラスケースから驚くほど小さなクリスタルのスワンを取り出し、プレゼントしてくれた。インスブルグとスワロフスキーは彼女の誇りだったようだ。それもあってか私の中で、クリスタルの輝きとインスブルグの街の気高い印象が重なり合う。
ゆっくり日曜日の旧市街を散策して、今日の宿、郊外のキャンプ場へ車を走らせた。

キャンプ場は岩山のふもとにあり、着いた途端すっかり魅了されてしまった私達は、切り立った景観が目前に迫りくる位置にテントを張った。山の天気は変わりやすい。テントを張り終わる頃、見る見る灰色の雲が広がり、大粒の雨が降り出した。ところが「プールになることはない」と得意になる暇もなく、今度は太陽が照ってきた。雨上がりのスキッとした空気に、太陽が反射する岩の頂が黄金色に輝き始めたのだ。
夜の星空も切迫感があった。満天の星に、口を開ければ流れ星が入ってきそうな感じだ。眠るのが惜しく感じられたが、横になるとあっという間に眠りに吸い込まれてしまった。

つづく

2011/07/17

オーストリアへ ブレーゲンツ

梅雨が明けて本格的な夏到来、気温は既に34度。
「ヨーロッパの夏はこんなに暑くないんでしょう」とよく言われるが、確かに日本と比べ湿気がないから過ごしやすくはあるが、フランスでも猛暑になった年がある。夏中雨が降らずに毎日40℃近く、病院は熱中症の患者で溢れ、死亡した一人暮らしの老齢者が続出した。南仏では山火事が広がり、フランス中大騒ぎだった。お蔭でCanicule/カニキュール、猛暑という単語を繰り返し聞くことになり、自然に覚えることが出来たが、とにかく暑い夏だった。

フランスの一般家庭ではエアコンを使わない。待ちに待った夏だから暑いのを楽しむ。一軒屋ではプールがなくても庭に長いすを出し、水着で日焼けしながらリラックス。食事も外のテーブルで、が多くなる。アパルトマンでもテラスでのビキニ姿をよく見かける。若くないから、スタイルがよくないから、なんて気持ちは存在しないようだ。南仏など暑さの厳しい地方では、午後の日差しの強い時間、日除け扉やシャッターを半分閉める。このように日光を遮っただけで石造りの家の中はひんやり涼しくなったりするのが通常だ。
ところがその年は異常だった。夜も熱帯夜が続いた。扇風機でもあればと買いに行ったが、既にどの家電販売店でも売り切れで、入荷は未定。
「もう我慢できない」その足でスポーツ店に行き、小さなテントを買った。
7月と8月、フランスはバカンスシーズンだ。誰もがそのことしか頭にない。そうだ私達も避暑でバカンスに出かけよう。思い立ったが吉日、車に最低の着替えと歯ブラシ、テント、懐中電灯を積み込み、出発したのだった。勿論車にもエアコンはないが、窓を開け、心地よい風をいっぱいに受けると猛暑なんて何のその、ヨーロッパでの初キャンプに鼻唄が飛び出す。
目指すは東のエデン。スイスのバーゼル、チューリーッヒを抜けてオーストリアへ向かった。

スイス、オーストリアとの国境が近づくと、大きな湖が左手に広がってくる。ライン川流域で最大の面積をもつボーデン湖で、スイス、ドイツ、オーストリアの国境に接している湖だ。
オーストリアに入ってすぐのBregenz/ブレーゲンツはバカンスを過ごすのにぴったりの湖畔の町だ。夏の湖上オペラは有名らしく、その日も間近に迫った公演の大掛かりな設営の真っ最中だった。
湖畔にも大きなキャンプ場があったが、私達は郊外の牧場に隣接したキャンプ場に向かった。

キャンプというと、私は山登りを描くが、ヨーロッパのキャンプはキャンピングカーでが多い。だからキャンプ場での陣地は車込が通常だ。空いている好きなところに車を止めて、その近くにテントを張る。リュックに担いで物を運ぶわけではないので、あらゆる物が運べる。テーブルに椅子、テーブルクロス、クッション、ラジオ、テレビと、リビングをそのままキャンプ場に移したような様子も少なくない。自然に入り込み、日常と違う最小の道具で工夫をこらしたキャンプが好きな私としては、何だか物足りない気もするが、考え方を変えればそれはそれで便利である。
食事も面倒であればレストランに行けばよいし、買物もわざわざ用意していく必要はなく、キャンプ場近くのスーパーで買える。自然に触れるという点では同じである。
第一日目は涼しい牧草の中、心行くまで星空を満喫して、深い眠りについた。

翌朝、朝露で澄んだ空気を思う存分吸い込み、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。いつもと違う朝、それだけでコーヒーの味も格別だ。気分爽快、隣に陣取った車のナンバーが同じエリアナンバーだったことから、自然と世間話が始まる。アルザスのミュルーズ近郊から来た家族だった。暫らくして、父親が言い出した。
「そのテント、何処で買ったの?」郊外どこにでもある大型スポーツ店の名前を言った。
「やっぱり。それね、気をつけたほうがいいよ。ほら、上の境目に穴が開いてるだろう。雨が降るとここから浸み込んで、テントがプールになるんだ。それがさ、見る見るうちに水がたまってって、大変だったことがあるんだから。」
「テントがプール!そりゃ昨日雨が降らなくて良かった。テントで泳ぐってのもねぇ。道理でおもちゃほどの値段だった訳だ。」
冷汗をかきながらだが、朝からみんなで大笑い。柵の向こうの牛達も吃驚しているようだった。こうなると山登りキャンプでなくて助かった。小さな町だけれど、スポーツ店が何処かにあるだろう。早速雨漏りのしないテントを求めて、ブレーゲンツの町散策に出かけることにした。

つづく・・・・

2011/07/11

傘の旅

梅雨が明けたのに、ではあるが傘の話。
先日父が電車に傘を忘れて下車してしまったらしい。
「娘からもらった傘ですけん」ということで慌てて問い合わせたところ、JRが親切に探してくれ、終点の駅に届けられていることが分かり、着払いで送ってくれたそうだ。母からその話を聞いて、私は首をかしげた。「傘とかあげたことあったっけ」「ほら、英吉利からのお土産で買って来てくれた傘よ。私にも。」
そう言えば傘に凝った時期があったなぁ。

どの本だかすっかり忘れたが、英国紳士の持つ傘について書かれた、上品でおしゃれな英吉利のエッセイを読んだことがある。英国紳士の持つ傘とは、ステッキになり得るほど細くキュッとたためるものだと書いてあったのを記憶している。そしてそんな英国紳士愛用の伝統ある傘ブランドがT.Fox & Companyだと紹介されていた。
ミーハーな私は英吉利に旅行したらお土産は傘だなと決め、そして実行した。海外旅行をしたことがある方にはよく理解いただけると思うが、傘は土産に適しない。折畳み傘ならまだしも、スーツケースに入らないからずっと手荷物として持ち歩かなければならない。重くはなくても邪魔になる。ちなみに折畳み傘なんて英国紳士には相応しくないものらしい。だから伝統ある英国製傘は通常以上に長い傘。それを2本、しっかり持って帰ってきたのだから、我ながら「よくやった」と感心する以上にあきれてしまう。しかも折角の英国製高級傘、父も母も「もったいない」と言って長い間使わなかった。
だが傘土産はまだ続く。イタリアからド派手な雨傘を自分用に(これは好評だったが、かなり使って壊れてしまった)。ベルギーからはブリュッセルレースの日傘を母に持ち帰った(これは恥ずかしいと今だに新品状態)。久々に広げてみると、その時の旅行の思い出までも蘇ってきて楽しくなる。かれこれ15年以上昔のことだ。

その後、私は旅行そのものが高じてロンドンに住むこととなる。そこで発見したことだが、何と実際のイギリス人は傘を持ち歩かない。なぜか?イギリスの天気は気まぐれだから、雨が降ってもどこかの軒先でちょっと待てば小ぶりになる、という訳だ。ましてや伝統高級傘なんて持ち歩いてたら、ちょっとした隙に盗られてしまう。実際私も安物なのに、唯一の傘を傘置きで盗まれ、その後は傘なして通した。

イギリスに住んでいながら、傘も持たずに過ごして帰国した娘に、今度は母が旅行土産として、JAL機内販売の折畳み傘を買ってきてくれた。今だにお気に入りで使っている。小さくて軽く、何より柄が世界地図なのだ。これならどんな雨の日でも楽しく歩ける。いやいや例え雨でも何処かに行きたくなる。そしてその後、この傘は描かれたデザインのごとく、私と共にあちらこちらと世界を旅することになったのだった。

英国製ならず、日本製も優れものですヨ。

2011/07/06

クジラとイルカ

「映画"The Cove" 見た?ショッキング。是非とも見るべし」
アイルランド人の友人からメッセージが入った時、私はまだフランスにいた。近くにレンタルビデオなんてないし、でもどんな映画かと気になってネットで調べてみた。

The Cove/ザ・コーヴは和歌山県鯨の町とも言われる太地町で、毎年23000頭ものイルカが捕獲され、一部は世界中の水族館に売られ、多くは食用にされているという事実を暴いた映画で、2010年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞し、全世界が注目したドキュメンタリー映画、ということだった。

海外にいると、必ずどこかで話題になってしまう日本の捕鯨問題、その度肩身の狭い思いをするのは避けられない。個人としてはそれも日本の文化だと思っている。しかも日本人は鯨に感謝し、無駄なく全部食べてきた。豚や牛は食べるのが当たり前で鯨は悪いという理論には納得できない。だが一方で、絶滅する危機にある動物を食べなくても生きていける世の中だから、止めるべきなら止めてもいいのではとも思う。だから国際間で話し合い、調整し、ルールに沿ってやっているではないか、と意見を聞かれたら遠慮なくそう言っている。私自身も子供の頃普通に塩鯨を食べてきたし、お酒は飲めないがオバイケが好きだったりもした手前、「可愛そう」なだけの偽善は言いたくない。

そうしたところある日、フランスのTVで、過激な海洋環境保護団体として知られるシーシェパードについてのドキュメンタリーがあった。反捕鯨については日本だけでなく、ノルウェーやアイスランドといった北欧諸国もターゲットになっていて、過激な妨害を仕掛けられるので捕鯨船にとっては頭を痛める存在だが、リーダーのPaul Watson/ポール・ワトソンがインタビューの中で言った。目の前で子供や女性が暴力を受けていたら見過ごせるか?理屈がどうのこうのよりまず助けようとするのが人間だろう?反捕鯨の闘いはそれと同じだ、と。使命感に燃え、確固とした信念と正義を貫く強さを感じる人だった。闘いが似合う人でもあると思ってしまった。

日本に帰国して、今度は偶然にも2本のNHKの特集番組を見た。「クジラといきる」と「小さな町の国際紛争~太地町とブルーム市の苦悩~」だ。
映画による波紋で、太地町の捕鯨に携わる人々の暮らしが脅かされている現実と、その苦悩、それは遠くオーストラリアの姉妹都市であるブルーム市にまで及び、太地町からの移民が必死で発展させた町という歴史を持つにも関わらず、日本人先祖の墓石が荒らされ、日本との絆が引き裂かれようとしている。またそれに立ち向かう日系子孫達の奮闘も描かれていた。

どちらも憤りと遣る瀬無さでいっぱいになってしまうドキュメンタリーだった。日本にも言分がある。そのまま英語版にして世界に発信出来ないものかとさえ思った。太地町の捕鯨に携わる人々は、高級スーツを着て、高層ビルオフィスに座り、パソコンをクリックするだけで、何十億、何百億を瞬時に稼ぐマネーゲームの人達とは違う。自らの命をかけて労と共に、真面目に仕事に励んできた人達だ。生命を奪う仕事であるだけに、生命の尊さと、生きることへの感謝を日本の文化からしっかり受け継いでいる。そんな太地町の人々に10万円の札束を振りかざし、金をやるから捕鯨を止めろと叫ぶアクティビストこそ、いったい「生きる」ということを理解しているのだろうか。こうなったら映画を見ずにはいられない。

こうして意気込んで観た「The Cove/ザ・コーヴ」だったが、実は観終って、益々何が何だか分からなくなってしまった。TVのドキュメンタリーはフランスTVもNHKも捕鯨に関して。ところが
映画そのものはイルカを虐殺するなと言っている。そして私は日本人ではあるが、日本人がイルカを食べる民族だったとは全く知らない。イルカはクジラ類だが、一般的にはクジラとイルカはいっしょではない。いったい何が何を目的とし、どうなっているのか分からない。

映画ではイルカ肉が鯨肉として売られていると言っていた。だがイルカ肉には水銀が含まれるため、危険であるらしい。また日本政府が公表している情報は都合のよい嘘であり、都合の悪い事は隠蔽しているとも。FUKUSHIMAの件もあり、確かにあり得る事かと思える。だがそうだからと言って正義のストーリー、アクティビストが危険なイルカ虐殺の町に乗り込み、最先端技術を使ってクールにスマートにイルカ虐殺を密撮影するというアメリカ大衆風タッチの映画を全面信じる気にもなれない。そういう意味でこの映画は、世界を扇動し、日本叩きが目的だとしたら(監督は決してそうではないと言っていた)大成功だと言えるが、当事者を始め日本人を説得させるには不十分で、逆効果でさえあったのではないかというのが感想だ。

それにしても物事は視点や立場によって、こんなにもストーリーが変わってしまうものなのか。
文化や思想、慣習が違えば仕方ないことなのかもしれないが、それだけにマスメディアやマルチメディアからの1つの情報で判断することは出来ない、判断してはいけないと強く感じた。
現代社会はインターネットの発達や衛星放送の発達であらゆる情報が氾濫している。公の情報の信頼性は揺らいでいるが、マスメディアといっても視聴率や利益とは切っても切れないのだから、嘘はつかないまでも事実の都合の良い部分だけを強調し、大衆好みに色付けして報道してしまうこともあるだろう。インターネットの情報も、真偽の程は個々の判断に委ねられ、責任の所在はない。
結局のところ、自分の体験でない情報は信頼し切ってしまうな、便利な世の中になったとは言っても、やはり座っているだけで世界を知ることは出来ない、ということかもしれない。