2011/11/09

博多ライトアップウォーク

数年前になるが、派遣先の会社で知り合った同じ派遣友達から誘われて、ガイド付き博多の街巡りに参加したことがある。櫛田神社から東長寺、承天寺など大博通り裏手の情緒豊かな禅寺をめぐり、最後に博多町家ふるさと館に戻って来るという2時間の徒歩コースで、その友人が英語ボランティアガイドをしていたのだった。外国からの観光客に混じって地元の博多巡りというのも変な話だが、初めて訪れるしっとりと落ち着いた禅寺、何百年も昔からアジアへの玄関口だった博多の歴史など知らなかった事ばかりで、興味深くガイドに耳を傾けた。初めは緊張気味だった彼女だが、進むにつれ調子が乗って説明もリズミカルになり、私達参加者は熱心に聞き入った。日本に興味をもつ外国人観光客からは時々鋭い質問も飛んでいたが、彼女がニッコリ冷静に答えていたのには感心した。下調べをし、原稿を書き、練習を重ねて暗記する。ボランティアとは言え、とても大変な仕事なのだそうだ。それでも彼女は色々な知識が増えていくことが楽しいと、派遣の仕事と掛け持ちしながらいつも活き活きしていた。そしてその情熱あるガイドは10人ばかりの参加者全員に「素敵な街・博多」という印象を刻み、最後は皆の大拍手をもってコースを終えた。そして私は数年後、他地方から訪れる友人に博多の街を案内するなら、是非あの辺りをと思ったのだった。

その友人のもうひとつのお勧めが「博多ライトアップウォーク」だった。秋の夜、ライトアップした博多の寺を巡るというイベントで、その期間のみの特別拝観もあるということだった。昼と夜では全く別世界よと彼女は言った。是非行ってみたいと思いつつ数年経ってしまったが、今年こそはと「博多千年煌夜(とうや)」を散策しに出かけた。
通常は拝観無料の各寺だが、イベント期間中18:00~21:00の間は6枚つづりの入場券を購入し、一か所一枚づつのチケットが必要になる。

まずは大博通りに面した東長寺から。普段は人通りの少ない休日の夜の大博通りだが、この日は東長寺に近づくとすでに人だかりがしていて、お祭り気分になってくる。
中に入ると五重の塔が赤く浮き立っていた。本堂もライトアップされ、いつもより大きく荘厳に見える。庭の細やかな部分にもライトデザインがなされ、特別拝観の六角堂は並ばなければならないほどの賑わいだ。灯りに浮かび上がった弘法大師も喜ばしげだった。

東長寺を後に裏手に回り、聖福寺横の妙楽寺、順心寺を参拝する。昼間はなんてことのない寺門までの通りも、やわらかな灯りで彩られ、土塀には山笠のライトアップ、穏かな気温で待ち時間も全く気にならなかった。
承天寺の前「御共所夜市」では、うどんやそば、饅頭が並んでいた。これらの発祥の地であることに因んでだろうか。雰囲気と匂いに小腹が空く。

博多山笠発祥之地ともされる承天寺ではこの日、特別拝観で洗濤庭(せんとうてい)の美しい石庭を本堂から眺めることが出来た。靴を脱いで廊下をまっすぐいくと、目の前に青から紫へと変化する光の石庭が広がる。その幻想的な美しさには思わずため息。座り込んで暫らくぼーっと何も考えずに眺めていたくなるが、その前にまず写真。方丈の縁にずらりの座った人々が、石庭を前に皆それぞれ携帯の画面を覗き込んでいる姿はこれまた現実的な光景だった。案内板の説明には「方丈手前には玄界灘を表現した白砂、奥には中国に見立てた緑庭が広がる洗濤庭、穏かにそして時に激しく・・・玄界灘の波の力強さと白~青~ムラサキへと穏かに変化するグラデーションで表現。幻想的な色彩のハーモニーが、大陸と博多の交流の歴史を今に伝えます。」と書いてあった。ふと記された照明協力企業名に目が留まる。「デンコウ・・・」懐かしさと共に、もうすぐ消えゆくこの標記へのやるせなさが込み上げた。

激しい時代の波が押し寄せているのは玄界灘でも石庭でもなく、日本企業。兄のプライドだの方針が違うだの言ってられるご時勢ではないのだろう。大きな波に乗って同胞溶け合い強みを集結し、日本ブランドとして世界に打って出なければ、情け容赦ない弱肉強食のグローバル世界だ。そうは言っても社会人生みの親のアイデンティティが溶けゆくのは寂しいものだ。いったい昨今の日本、現役も引退も中途退社も含め、どれだけの企業人が同じような思いを噛み締めていることだろう。  青いブランド名の下の社名を見つめながら、穏かで優しく、活気があったあの頃にノスタルジーを感じる。
青紫のライトアップが途端に諸行無常の流れに思えてしまった夢の如き秋の夜だった。

2011/11/06

M氏へ

「今頃どの辺りだろう」
M氏を想う時、私はいつも七つの海に想いを巡らす。
旅好きだった故人を偲ぶにはロマンがあって、想像が広がる。
遥かな海を航海中、だがメキシコ湾流に乗って意外と近くにいらっしゃるのかも・・・ダブリンでカモメの鳴き声を聞きながら、ふと思ったこともある。

「海に撒いて欲しい」
「何で?」と尋ねる夫人に
「そりゃあ、気分が良いじゃないか。それに海なら世界中何処にでも行けるよ」生前M氏はこう答えたらしい。
初めから賛成だった訳ではない夫人だったが、海へ旅立ちの時には、ポルトガル旅行の思い出であったエンリケ航海王子の帆船を手作りして見送ったということだった。なんて粋な船出だろう。氏がエンリケ王子の船の帆を張って、大海をぐんぐん進んで行く様子は想像しただけで楽しくなる。
氏の心意気に夫人の優しさ、私にとって永遠のベストカップルである。

 私が実際M氏にお会いしたのは一度きり、フランクフルト空港で日本への便を待っていた時だった。
ふとした事から会話が弾み、何故だか住所を交換し、そして手紙を書くようになった。
「又、お手紙ください。貴女の手紙は味が良くて楽しい」という褒め言葉にすっかり気を良くしてしまったのが正直なところだ。旅行好きという共通点以外、お互いのことは何も知らなかったが、だから思ったままを素直に書けた。そしてそれを夫人と共に読んでくださり、面白いと感じてもらえたと分かると、無性に嬉しかった。いつの日か大好きなアルザスを案内したいなぁ・・・だがM氏の旅立ちは早すぎた。今年で7年になる。それでも今、氏の存在は過去のものではない。航海中なのだ。
世界中何処にでも行けるから、世界中何処にいてもお見通しとなる、そんな気がしている。

今年始めのことだ。久しぶりに声を聞いた夫人から、いきなりブログを勧められた。ちょうど私はアルザスで、自分の日本語に不安を感じ始めた頃だった。1年以上全く日本語を使わない生活をしていると、たまに日本へ電話をした時、言葉がスムーズに出てこなくなる。ブログは日本語の良いリハビリにもなるなと、思い切ってやってみることにした。アルザスについて、とにかく手紙を書くように書いてみよう。そうだ、あの頃のように・・・。始めてみると、自分でも不思議なくらい次々に書きたいことが浮かんできた。「その調子、次も楽しみにしてますからね」夫人の支えは大きな原動力だった。単調になり始めていたアルザスでの生活が、活き活きと輝きを復活した。写真も撮りたい。毎日が急に忙しく、楽しくてたまらなくなった。その上ブログのお蔭で、気になりつつご無沙汰していた方とやりとりが出来たり、新しい友達が出来たり、嬉しいハプニングも起こった。日本に帰国しても日本語がスルスル問題なく出てきた。

先日何年もぶりに夫人と再会し、博多の街を案内することが出来た。M氏の妹君とは待望の初対面だったが、不思議と‘初めて’な気が全然しなかった。
「それにしても女同士、よーしゃべっとる。」
全てお見通しのM氏とはいえ、ここまでとは想定外だったかもしれない。
生憎の雨も「より良い情緒」に変えてしまう天性の旅上手な夫人と妹君、案内するつもりがいつの間にか、私自身がすっかり楽しんでしまっていた。何を見ても楽しい学生時代の旅行のようなエキサイティング感さえ漂っていて、これぞ旅上手のエスプリなのかもしれない。

最後の夜、博多の街は灯明ウォッチングの催しで彩られていた。東長寺本堂、間近でみる山鹿踊りの幻想的な灯篭の中、私は静かに手を合わせ、この不思議な縁に心から感謝した。