2011/08/20

ダブリン 魚物語

もう何年も前になるが、アイルランドのダブリンに滞在していた。ちょうど今頃の季節だった。7、8月とはいえアイルランドの夏は涼しい。梅雨はないが、年中雨の多い国なので日本と同じくらいの湿気がある。緑だけがやたらと濃かった。同じヨーロッパでも、カラリと青空の多いアルザスから来ると別世界だった。
だから面白い。アルザスには海がないがダブリンにはある。
毎朝カゴメの泣き声で目覚める度、微かに微かに一瞬感じる潮の香りに心が弾んだ。

そんなある日のこと、玄関のベルが鳴って扉を開けると大家のH氏がにっこり立っていた。H氏はダークブラウンの目をしたジョージ・クルーニーのような美男、だがそんな彼には似合わない無造作な新聞包を手にしている。
「ちょっといいかな」キッチンへ直行するとテーブルの上でその「無造作な新聞包」を広げた。
中から現れたのははち切れんばかりにピチピチしたTrout/鱒だった。
「釣りに行った帰りなんだ。すごいだろ」
「デカイ。こんなのが釣れるの!」
「今日はラッキーだった。60センチあるんだよ。計ったんだ。」
得意げなH氏は少年のようで微笑ましかった。クールな人かと思っていたのに、獲物を誰かに自慢したかったってわけですね。
「あげるよ」
「えっ?」言葉を失ってしまった。吃驚して止まった脳を必死で動かし、断りの言葉を捜した。
「そんな、折角釣った、こんな立派な魚を、いただくわけにはいかないわ。」
「いいんだ。家には料理する人いないし、夕方は約束があるから。」そう言えばH氏は離婚調停中だった。
「釣れたってだけで大満足さ。オーブンで1時間ぐらい焼けばいいよ」
私の表情が不安気に見えたのだろうか。彼はウィンクしながらそう言うと、新聞紙の真ん中にごろんと横たわる鱒を置き去りにして、さっさと帰ってしまった。
どうしよう・・・・。

魚の美味しい国から来た私だが、こんな大きな魚を相手にしたことなんかない。魚は切り身しか・・・こんなことなら日本で母からもっと料理を習っておくべきだった。が、後悔したときは遅し。目の前には息絶えた鱒がどうにでもしてくれと横たわっている。大きすぎて冷蔵庫にも入らない。やるしかないのか。
ナイフを手にした。日本では信じられないかもしれないが、キッチンに包丁はない。ましてや出刃包丁なんてしゃれたものなどあるわけがない。あるのは小さな万能キッチンナイフのみ。

まず魚の表面にナイフの刃を滑らせ、ウロコを取った。透明なウロコがパチパチ飛び散ったが、キッチンの汚れなんか気にしている場合じゃない。次に内臓。魚と目を合わせないようにぐぐっとひと思い、腹に短いナイフを差し込んだ。ぐにゅっ。新鮮なだけに弾力性があるが、正直グロテスク。手を止めてしまったらやり通す自信がない。無我夢中だった。塩でもんで、ブチ切りをして、天板にのせ、オーブンに入れた時にはぐったりしてしまった。
魚の生くささが、キッチンのみならず、部屋中に満ちていた。食欲ないなぁ。
ところがである。30分を過ぎた頃から焼き魚の香ばしい香りが漂い始めた。とお腹もそれに合わせて空いてくる。急速にグロテスクな格闘は過去となっていった。オーブンの中、目の前に見えるのはぶちぶち油の跳ねるピンク色のおいしそうな焼き魚。
出来上がりがどれだけ美味だったかなんて言うまでもない。醤油と、ちょうどあったレモンをかけて(カボスでないのは少々残念だったが)、ご飯といっしょに完璧な夕食だった。

魚の美味しい国から来た民族ということを実感した出来事である。魚をさばくなんてやったことはなかったのに出来た。グロテスクなんて言っておきながら、美味しく平らげた。
我ながら目からウロコのダブリン体験だった。

2011/08/13

オーストリアへ ウィーン

ついに最終目的地、ウィーンに到着。アルプスや山間の村、古都も良いが、都会も良いなぁというのが正直な感想だった。甲乙なんてつけ難い。言い方を変えれば、それだけウィーンには都会としての美しさと魅力があるということだ。ロンドン、パリのように大きくはないが、音楽、芸術、歴史、食とあらゆる方面で、通の人々にも充分な刺激を与え得る上質なものが凝縮している。それでいて大都会の齷齪さがなくゆったりとして、その雰囲気が街に優雅さを与えているように思える。これもハプスブルグ家栄光のシンボルということだろうか。

さてハプスブルグと言えば、「戦争は他家に任せておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と家訓にある通り、その栄華は16人の子供を産んだ女帝マリア・テレジアにも代表されるが、結婚政策にあった。マリア・テレジアの娘で、フランス最後の女王となったマリー・アントワネットについては日本でもよく知られている。また半世紀以上後になるが、本家本元オーストリア帝国では、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にドイツ公家から嫁いだ皇妃エリザベートが有名だ。古い映画になるが、ロミー・シュナイダー主演の「シシィ」がヨーロッパを一世風靡したこともあり、今でもシシィ(エリザベートの愛称)の人気は衰えることがないようだ。ハプスブルグ家から嫁いだマリー・アントワネットとハプスブルグ家に嫁いだエリザベート、どちらも次々と社交界の流行を創り出し、伝説の美貌を持つ女性で、当時も今も女性としての賞賛の対象だった。だが、「ヨーロッパ」をひとくくりにしてしまう日本人感覚からは理解しにくいが、他国から来た「よそ者」でもあった。
そのことに気付かされたのは、日本でフランス語の先生と話した時だ。彼は日本におけるマリー・アントワネットの人気が理解できないと言った。フランスにおいてはそれほど人気があるわけではないらしいのだ。はじめ私にはそれが理解できなかった。フランス最後の女王だというのに?だが彼曰く、彼女はオーストリア人であり、フランス人ではない。贅沢三昧をし過ぎ、フランス民衆の敵となった人物ではないか。確かにその後フランスでも、彼の言を思い出させられるような意見を聞いた事がある。マリー・アントワネット自身も一生ハプスブルグ家を強く意識し、それだけにフランスが冴えなく映ったりもしていたようだ。一方ドイツ公家から嫁いだエリザベートは厳格なハプスブルグ家にしっくり馴染むことが出来ず、孤独感を紛らわすべく、旅行ばかりをするようになる。皇帝の深い愛情にもかかわらず、幸せだったとは言い難い人生だったようだ。どちらも時代は違うが、「一人の人間としての幸福を求める」など考えすら及ばなかった時代の女性の宿命だったのだろうか。結婚にしろ、出産にしろ、それが国の行く末を左右するという重い使命を持ち、それでいて大きな時代の流れの前には無力でしかなかった。

政略結婚と言えば日本の歴史も例外ではない。日本が勢力を伸ばしていた時代、公家令嬢、浩という日本女性が満州国最後の皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁いだ。波乱に満ちた時代に翻弄された人生である。だが政略結婚でありながらも、お互い2人の間に芽生え、大切に育まれた普遍の夫婦愛に、私は感銘を受けずにはいられなかった。
ドイツにいた時のこと、時々行った中華料理のレストランで、オーナーの中国人マダムと中国のラストエンペラーについて話をする機会があった。私が弟溥傑のことに触れると、彼女はそうそうと首を縦に振り、「私、若い頃、夫妻に会ったことがあるの」と言い出した。
「ちょっと待ってて」レストランの上階にある自宅に戻って1枚の写真を持ってきた。
彼女は昔ドイツに移住する前、中国のホテルで働いていたらしく、そのホテルに溥傑夫妻が休暇で宿泊客として滞在したことがあり、その写真はスタッフの一人がいっしょに写ってもらえませんかと頼んで撮ったものらしい。老夫婦は若い制服姿のスタッフ達に囲まれ、朗らかに見えた。どんな人だったのかという私の好奇心に、彼女は何十年も前の鮮明な記憶を辿ってくれた。
溥傑の妻が日本人であることは当時の彼女も知っていたが、とても日本人とは思えない普通の中国人のようだったらしい。2人とも目立たないが感じがよく、スタッフにも親切で、写真の申し出も快く受けてくれたとか。何より2人の仲睦まじさが印象的だったと彼女は繰り返し言った。 

運命とは異なものだ。何をどうしたからどう転がって、どういうことになっていくのか誰にも分からない。個人の資質や努力とは関係ない大きな力に流されることも多々ある。運命を創っていけるほど人間は強く出来てはいないのではないか。最近ではそのようにも思える。ただ避けることの出来ない大きな波をどう捕らえ、向き合っていくか、結局その姿勢の足取りが人生というものなのかもしれない。
今も昔も、歴史上の大人物にとっても、唯の人にとっても、人生とは修行であることに変わりはないようだ。

2011/08/07

オーストリアへ リンツ

Linz/リンツはザルツブルクとウィーンの中間に位置するドナウ川沿いの商工業都市だ。表情豊かなアルプスの山景色の虜になってしまうと、都会が近づくにつれ、なだらかになっていく風景にがっかりしてしまう。またヨーロッパ中どの国でも言えることだが、工場が発達してしまった都市は、栄えた街であっても、どこか殺伐とした印象を受けてしまう。リンツもそんな街のひとつだった。
だがそれとは別に、この地で私達は期待以上の素敵な目的達成が出来た。そもそもなぜリンツに立ち寄ることにしたか、それはアルザス名物のTarte de Linz/タルト・ド・リンツの故郷だからだ。「リンツのお菓子」というこのタルトは、ドイツ語でLinzer Torte/リンツァートルテ、アーモンドの粉末と、シナモンやナツメグなどの香辛料を入れた生地に、ラズベリージャムをたっぷりはさんだ焼き菓子だ。アルザスではケーキ屋は勿論、ベーカリーでも良く見かける。店によって生地がソフトだったり、クッキーのようだったり、またラズベリージャムの食感にも違いがある。こんなに美味しい菓子だから、遠くオーストリアからドイツ、スイス、アルザスへ伝わったのだろうと想像できる。折角オーストリアを訪れるのなら、一度本場リンツでオリジナルのタルト・ド・リンツを食べてみたい、これが私達の目的だった。

さて車を降りて、早速メイン通りから探索を始めた。路面電車の行き交う通りの両側に、流石本場だ、あるあるリンツァートルテの看板。ウィンドー越しに綺麗な箱に詰められた丸いトルテが並んでいるのが見える。それはまるで、大宰府天満宮の参道に並ぶ梅ヶ枝餅屋のよう。大宰府といえば梅ヶ枝餅のごとく、リンツといえばタルトなのだろう。だが、私達の目的は土産品として買うのではなく、味わうことにある。裏通りに入ったほうが良いという直感に導かれ、通りを逸れてみた。暫らく当てもなく、だがアンテナはピンと張って歩いていくと、そのカフェは現れた。リンツに行ったらと描いていたそのままの、雰囲気あるカフェだった。

店を入ってすぐはベーカリーだった。手作りの美味しそうなパンが棚にずらりと並んでいる。ウィンドウの中には菓子パンやケーキ。目移りしそうなのを抑え、「リンツァートルテはありますか?」と尋ねると、「ありますよ。カフェは奥へどうぞ」女性が笑顔でカウンターの横手を指した。カフェはこじんまりした広さで、地元の老紳士が新聞を読みながら、ゆっくりコーヒーを飲んでいる。店の男性ともお馴染みのようだ。読み物は新聞だけではない。ドイツ語なのでさっぱりだが、それでも面白そうな写真集や歴史の本が並んでいて、インテリアの一部になっている。壁には古い地図や写真、何だか歴史を感じるカフェだ。運ばれてきた「リンツのお菓子」を堪能していると、それまで寛いでいた周りの客が、次々と会計を済ませ帰ってしまい、店はがらんと私達だけになってしまった。
「閉店時間ですか?」
「いやいやまだいいんだよ、ゆっくりして。旅行者?
何処から?」
店の男性のフレンドリーさに、思わず何のためにリンツに寄ったかの話をした。彼は急に職人的な面持ちで、
「リンツのリンツァートルテはどう?」
「遥々来た甲斐のある美味しさです。」
「それは良かった。実はうちの店はねぇ・・・・」
彼は彼の祖父が始めたこの店の3代目ということだった。オーストリアの歴史が好きで、壁に飾られた古い地図は彼のコレクション、ハプスブルグ家全盛期のヨーロッパ地図だった。「フランスのナポレオンもヨーロッパを制覇したけどね、」と気遣い充分ではあるが、いかに当時のオーストリア(ハプスブルグ)が力を持っていたか、その後現代に至ったかを、時々本に手を伸ばし、頁をめくって写真を見せながら話してくれた。こんな所では聞けない、だがここでしか聞けない興味深い話に、私達はタルトのことも時間もすっかり忘れて聞き入ってしまった。

最後に3代目主人が店の案内カードを記念にくれた。
「リンツに来たらまた寄ってよ。良い旅を」
「ありがとう」
店を出て初めて気付いたのだが、閉店時間はとっくに過ぎていて、ベーカリーでは既に掃除が終わっていた。
リンツでの「リンツのお菓子」の思い出だ。