2011/06/28

博多祇園山笠

日本の梅雨はうっとうしい。雨の中に咲く紫陽花に趣はあるが、毎日じとじと、洗濯物が乾かない。おまけに気温が上がると体もだるく重くなってしまう。だが博多の街では毎年この時期になると、久留米絣の長法被姿を見かけるようになり、お祭り気分の高揚を感じる。山笠を舁く博多の男達の気合が入る季節なのだ。

博多祇園山笠は全国的にも有名な博多の祭りだが、どんたくがみんなで参加して楽しむ市民の祭りであるのに比べ、こちらは博多区の櫛田神社に祀られた素戔嗚尊/すさのおのみことに奉納される祇園祭のひとつだ。氏子たちが伝統的に行ってきた町内行事でもある。6月からは行事の連続で、特にTVでも放映される7月15日夜明けのクライマックス、タイムを競う「追い山」は一番の見どころだ。起源については諸説があるらしいが、通説では鎌倉時代の1241年、博多で疫病が流行した際、臨済宗・承天寺の開祖、聖一国師が、疫病除去のため施餓鬼棚/せきがだなに乗って祈祷水をまいたのが発祥とされている。当時は神仏混淆の時代、これが災厄除去の祇園信仰と結びつき、山笠神事となっていったらしい。
かつては京都の祇園祭のように、豊臣秀吉が行った「大公町割」による流れ/グループごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていた。ところが江戸時代の1687年、休憩中の土居流が恵比寿流に追い越される「事件」が起こり、越されてたまるかと抜きつ抜かれつの競い合いになったのが評判となった。これが「追い山」に発展したそうだ。博多もんの気質だろうか。だがこの「追い山」はとにかく迫力がある。
午前4時59分に一番山笠がスタートする。櫛田神社境内の清道を回って奉納し、境内で「博多祝いめでた」を歌う(一番山笠のみ、1分)。その後、「オイサッ、オイサッ」という掛声と共に多数の男たちが交代を繰り返しながら山を舁き回る。二番山笠からは5分おきに出発。「追い山」は櫛田神社から須崎町の廻り止めまで博多の町約5キロのコース、それぞれのタイムを競うレースである。コースは何処も観光客や地元の人々で熱気をおび、沿道のあちこちから勢い水が次々に舁き手に浴びせられる。狭い通りなどでは見物客にかかることもあるが、それも祭りの興。最後の最後まで勢いは増すばかりだ。
一方、山笠が全て清道を回り終えると、櫛田神社境内では喜多流の能楽師により紋付き袴の姿で「鎮めの能」が厳かに舞われる。また各流れでは追い山の後、「祝いめでた」で1本締めをして、直ちに舁き山を解体してしまう。この潔さがまた良い。これも博多もんの気質だろうか。
そして博多は梅雨明けを迎えるのが恒例だ。

私が始めて「追い山」を見に行ったのは既にOLになってからのことだった。夜明けの祭りの興奮後、7月15日が平日だとそのまま朝の出勤となる。充分間に合う時間ではあるが、前日仕事が終わって、そのままオールナイトになる博多の街に繰り出し、生まれて始めてカンテツ/完全徹夜をしてのことだった。
午後になって眠気が襲い始めた頃、「ヤギちゃん、眠いやろう」課長がなぜか近づいてきて、私の顔を覗き込むように言った。「いいえ、眠くなんかないですよ。」しらっと答えてみたが、
「そうか?眠いはずやでぇ、昨日徹夜であそんどったもんなぁ。」一気に目が覚めた。な・なぜ課長がそんなことを知っているのだ?彼は私の驚きを見て取ると、満足げにニンマリして言った。「ヤギちゃん、TVにでとったでー。今朝のニュースで見てん。飾り山の前におったやろう。」
そうだ、思い出した。午前3時ごろ、友人達と飾り山の前で喋って時間をつぶしていたら、テレビ局のカメラが来て、山笠は初めてですかとインタビューされたのだった。1瞬だったからすっかり忘れていたのに、よりにもよって課長が見ていたとは。「元気やなぁ、徹夜して山笠見に行くなんて。今日は定時で帰りや。」
オレには何でもお見通しさ。遠ざかる課長の後肩がそう言っているかのように上がっていた。

クールに仕事をしているつもりなのに、何かしらいつも尻尾を見られてしまうOL時代の、梅雨明けの日の思い出であった。

2011/06/22

マルタの花・・・ポリジ

NHKのBSプレミアム「猫のしっぽ カエルの手」という番組の「京都 大原 ベニシアの手作り暮らし」では、大原に住むイギリス人ベニシアさんの自然溢れる暮らしが紹介される。日本の伝統・文化を大切にしながら、日本と西洋とが絶妙に融合した手作り暮らしだ。実際にやるとなると大変な労が必要とされる暮らしだと思うが、見ている分にはリラックス出来て楽しい。
先日その中でベニシアさんが、庭に咲いたハーブの青い花「ポリジ」はそのままサラダに入れて食べれる花だと紹介した。
「マルタの花だ!」懐かしく、心が一気にアルザスに飛んだ。

 マルタとの出会いは昨年のこと、暑い夏の日の午後だった。じりじりと照りつける午後の太陽に閉口しながら、外出先から近所の通りまで歩いて戻ってきたところ、前方をひとりの小さなマダムが手荷物を提げ、足取り重く坂道を登っていた。思わず足を早め声をかけた。
「ご近所にお住まいですか。荷物をお持ちしましょう。」驚きと共にしわくちゃの汗ばむ顔がぱっと輝いた。
「C'est vraiment gentil /ご親切にありがとう。すぐ近くよ。重くはないのだけど、今日は暑すぎるわね」
世間話をしながらゆっくり数分で彼女の家の前まで来た。ご近所さんだった。門の前で引き返そうとすると、庭に野菜を植えているからくれると言う。
いやいやそんなつもりはないと断ったら、声をかけられたのがとても嬉しかったからだと言い、私が日本人だと分かると更に、昔日本に旅行したことがあると、その時の旅の話をあれこれ話しはじめた。先ほどの老女は何処へやら、とても85歳とは思えない、小さな体にエネルギー溢れる、会話もシャープでウィットにとんだマルタというアルザシアンに変わっていた。

それから私達の近所づきあいが始まった。彼女は裏庭に広い畑を作っていて、行く度に色々な新鮮野菜や旬のベリー、ハーブなどを気前良く取ってくれた。どれもがスーパーの野菜など比べ物にもならないほど味があり、ズッキーニも生のままサラダにして美味しく食べれることを教えてもらった。タンポポについて聞いたのも彼女だ。野菜や果物、植物、動物に詳しく、世界中を旅したことのあるユニークな女性で、定年まで公務員として働いた職業婦人でもあった。実は60年連れ添ったというご主人が10ヶ月前に亡くなり、気落ちしていた時期だったそうだが、気丈に明るく、いつも忙しく体を動かしていた。

ある日、そんな彼女の野菜畑に小さな星の形をした青い花が咲いているのを見つけた。茎の部分がふさふさとしていて可憐な花、何気なく見ていたら彼女が行った。
「好き?それも持って行きなさい」
「可愛いけど、花は切らずに庭に咲いているのを眺める方がのいい」
「何言ってんの。食べるのよ」
「食べる?」
「知らないの?サラダに入れてそのまま食べれるのよ。ストレスに効くし、体にいいものがいっぱい。美味しいから。」そう言いながら手際よく摘み取ってくれた。
食べるにはもったいないほど可愛い青い星の花、サラダにする前に写真を撮ったものの、教えてもらった名前を忘れてしまい、書き留めておけばよかったと日本に帰国して後悔していたところだった。
ベニシアさんのお蔭でその名は「ポリジ」、フランス語ではBourrache/ブラッシュだと分かった。
ムラサキ科の一年草、地中海沿岸原産のハーブで、カルシウムやリン、ミネラル成分を含み、古くから薬草としても利用されてきたらしい。別名を瑠璃萵苣(るりちしゃ)、スターフラワーともいう。

紫に近い青い花、マルタの少女のような青い目を思い出す。私の中ですっかり「マルタの花」になっていた花だった。

2011/06/12

若杉山の見える風景

若杉山山頂からの眺め
2階のマイルームから毎日見えるのはアルザスのVosges/ヴォージュ山脈ならず、糟屋郡の若杉山。
「若杉山が近くに見えるから、後で雨になるよ」
「若杉山の頂が見えてきた。天気になるね」と地元の人々には馴染み深い山で、かの菅原道真を祀った太宰府天満宮の後ろに聳える宝満山まで、三郡縦走といって一日がかりになるが、縦走もできる。
この若杉山、日本各地の多くの山々と同じく、唯の「山」ではない。山頂に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀った太祖宮/たいそぐうがある。神功皇后(西暦170-269年)が朝鮮半島出兵の為祈願し、その時手折ってお守りとした神木を、凱旋の後、香椎宮に植えた。今の香椎の綾杉だ。その綾杉を神明加護の御礼に再び枝分けして太祖宮の山に植えたことから「分け杉山」と言われるようになり、それが訛って「若杉山」となったのが名前の由来らしい。
また後年、弘法大使/空海(774年-835年)が真言密教を悟り、唐の国(中国)より帰国して訪れたことでも知られ、山頂から少し下ったところには弘法大使を祀った「若杉奥の院」があり、篠栗霊場八十八ヶ所巡りの番外札所となっている。
こうして若杉山は古来より山岳信仰や真言密教の聖地として、修行の場ともされてきた。そのため伝説やそれにまつわる見所も多い。その一つが挟み岩だ。

先日遥々、ロンドン滞在時からの友人が家族で会いに来てくれた。彼女もヨーロッパ、中東各国に住んだことのある移動人で実家は東京、九州は初めてという。近場を案内・・・と思いついたのが若杉山だった。前回会ったときは3歳だった彼女の息子は13歳になり、背丈は既に私以上、それでもエンジェルのような笑顔は変わらず、挟み岩の話をすると目を輝かせて面白がった。
挟み岩というのは山頂から若杉奥の院へ向かう途中にある、鎖が渡された幅30センチの奇岩で、善人しか通れないという、ヒヤリとするようないい伝えがある。
「じゃあ悪い人が通るとどうなるの?」
「岩が閉じてきて挟まれてしまうのよ。怖い?」
「怖いなぁ。僕通れるかなぁ。大丈夫だと思うけどなぁ。どうだろう。」
よし、行ってみようということになった。若杉山はふもとからの登山もできるが、奥の院遥拝所まで車で登ることもできる。それでも山頂への最後の詰めはかなり急な坂を登らなければならない。山に慣れない友人家族にとってはコクだったようだが、それでも杉の香りに満ちた瑞々しい緑の中何とか登り切り、太祖宮を参拝した後、いよいよ挟み岩へ向かった。
「こんなの通れない。無理だ。助けて!」
「大丈夫、そこに足をつけて、今度はこっち。鎖をしっかり握って。」
パニックと興奮、恐れと達成感、予想以上に楽しみながら無事に皆通過でき、若杉奥の院へたどり着いた。奥の院には弘法大使の独鈷の一撃で岩間から湧き出したとされる霊水「独鈷水/どっこすい」がある。癖のない軟らかい味で、そのまま飲むことができる。これまでに一度も枯れたことがないらしく、この霊水で高熱が下がったことがあると傍にいたお遍路さんが教えてくれた。ちょうど水分を補給したいところでの有難い水、思わず「もう一杯」とお代わりしたくなる。

次に遥拝所の駐車場に戻って更に走ること数分、隣の米ノ山山頂に着く。米ノ山はパラグライダーの発進基地としても知られ、見晴らしが良く、山あいの鳴淵ダムや駕与丁池をはじめ、その向こうには福岡市街や博多湾を眺めることができる。夜景のスポットにもなっているらしく、夜は若者カップル車が多いらしい。が、昼はお弁当を広げるのに最高の場所である。

ゆっくり絶景パノラマを眺めながらおにぎりを食べた後、今度は山中にある「大和の大杉」を見に行った。若杉山には、「大和の大杉」「トウダの二又スギ」「七又杉」「ジャレ杉」「綾杉」など樹齢500年以上の巨大杉があり、森林浴をしながら大杉群を巡る遊歩道が整備されている。その中でも「大和の大杉」は樹高40メートル、幹周16m15cm、根元近くから5本の幹に分かれている為、5本の杉のように見えるが、実は1本という巨大杉。地元の人が知っていたとはいえ、平成13年に確認されるまで人知れず、山中でひっそりと長い長い年月を過ごしてきた。いったい何を見て何を感じてきたのだろう。若杉山が古代から霊峰とされてきた由縁か、木の精に問いかけたくなるような神秘を感じる大木だった。

自然すぎて日本にいると当たり前のようだが、神と仏が闘うことなく同じ山に共存できたのは、結局は山に宿る自然の不思議の力とそれに対する人々の尊敬の念からではないだろうか。
それを源とすれば神も仏も仲間でしかない。そんなことを考えながら、森林セラピーを満喫し、心地よい疲れを感じながらも体の奥にエネルギーが充電されたような気分で帰路についた。
天気も良く、友人家族も大満足で、すっかり若杉ファンになったようだった。