私はロンドンで、日本語教師養成の学校に通っていた。日本語教師になるために必要な文法から言語学、音声学、教授法などを学ぶ。卒業前には30時間もの実習が続いた。20名ばかりのクラスの中で3人グループを毎回編成し、それぞれ1時間の授業プログラムを立てて教材を準備し、1人20分ごとに連携プレイで教壇に立つ、というものだった。
日本語を習う生徒役は一般公募で集められた。生徒ボランディアだが、無料で日本語の授業が受けられるというので人気があった。昼間にもかかわらず、性別、年齢、国籍の違う10人ほどの生徒が集った。ロンドンはコスモポリタンな都市だから、英国人だけではない。職業も学生や主婦、年金受給者と様々で、教師やピアニスト、ちょうど昼休みだからとオフィスを抜け出して来るビジネスマンの姿もあった。
日本語教師志望の私達はこの実習に真剣に取組んでいた。グループごとの作業に熱くなり、実習の前日は夜10時過ぎまで学校に残って教材作り、なんてことも珍しくなかった。だがそんなにがんばっても、実際は予想通りにはいかないのが常だった。初級、中級のクラス分けはあるが、生徒の理解レベルは様々だ。言語は違っても、「英語」を習得してロンドンに住んでいる外国人の方が日本語についても理解が早い。多言語を学ぶ必要が薄い英国人は不利となる。
またピアニストの男性の耳と記憶力がよく、1、2度のリピートで完璧な発音を習得していくのには驚かされた。彼に言わせれば、言語も「音楽」らしい。才能だと思う。
教える側の私たちは次第に、のみ込みの遅い数人をマークするようになった。今日の課題をこの数人に理解させることが出来れば、実習は「成功」となるからだ。どうやったら分かってもらえるだろう?試行錯誤が続いた。
マークされた一人にトムさんという英国人男性がいた。大きな青い目をした人で、英国人にしてはさほど背が高くなく、ビール腹が目立ち始めた30代後半の愛嬌ある人だった。授業で私達が何かしようとする度に戸惑ってばかりだった。授業で使えるのは日本語のみ。簡単な事でも英語では許されない。それでも一生懸命な姿に、何とか理解して欲しいとこちらにも熱が入る。もどかしくなることもあったが、みんなトムさんに親しみを持って接したつもりだった。一度も冷たい態度を取ったことはない。
ある日、懇親会ということで、みんなでパブに行く機会があった。授業ではないから英語と日本語、思い思いに両方が飛び交う。たまたま私はトムさんの近くの席になった。日頃はたどたどしいトムさんだが、パブでの彼は普通の英国人、英語だと話も弾む。そんな彼がはっきりとした英語で話し始めた。「僕はね、人より日本語の上達が遅くて、たどたどしいのは良く分かってる。きっと言語習得に向いてないんだろうね。でもね、クラスを出れば一人前のイギリス人なんだよ。仕事を持って、妻や子供もいる。幼児じゃないんだ。君たちはみんな親切で良い先生だと思う。ただね、日本語が出来ないってだけで、幼児扱いをするのは良くないんじゃないかと思うんだ。日本ではそれが普通なのかい?個人としてのリスペクト/尊重はしっかりするべきなんじゃないかな。人生においては僕の方が君達のほとんどよりずっと大人なんだよ。」最後はイギリス人特有のウィット交じりだった。
「ソーです。正解です。トムさん、よく出来ましたネー。ハーイ、では次にいきますヨォー。」
丁寧語は使っているものの、言い方そのものは幼児に話すのと同じ調子。親しみが深くなるにつれ、その調子は強くなるばかりだった。私達教える側のそんな態度は私自身も気付いていただけに、はっきり言われと、すっかり恥ずかしくなってしまった。私たちに悪意がないことは彼も充分承知している。だが、だからと言ってそれで良い訳ではない。
それ以来、トムさんの言葉はそのまま私の中で大きな教訓となった。何かを教えるという時だけでなく、人と接する時には気をつけなければならないと今も思っている。懇切丁寧と幼児扱いをすることは決してイコールではない。フランスではマダム、ムッシューをつけて、リスペクト/尊重は常に形に表される。それを欠いてしまえば、養護施設の車椅子に乗った、動きのままならない年老いたマダムからでも一喝されて当たり前。初めてそれを目撃した時は驚いたが、御尤もなことである。
今、人材育成支援事業のパソコンスクールに通っている。久しぶりに学生を味わいながら、私はトムさんの言葉を思い出さずにはいられない。が、日本の場合、先生の前になると子供になりきってしまう大人もいるようだ。パソコンの技術そのもの以上に難しさを感じる毎日だ。