2011/11/09

博多ライトアップウォーク

数年前になるが、派遣先の会社で知り合った同じ派遣友達から誘われて、ガイド付き博多の街巡りに参加したことがある。櫛田神社から東長寺、承天寺など大博通り裏手の情緒豊かな禅寺をめぐり、最後に博多町家ふるさと館に戻って来るという2時間の徒歩コースで、その友人が英語ボランティアガイドをしていたのだった。外国からの観光客に混じって地元の博多巡りというのも変な話だが、初めて訪れるしっとりと落ち着いた禅寺、何百年も昔からアジアへの玄関口だった博多の歴史など知らなかった事ばかりで、興味深くガイドに耳を傾けた。初めは緊張気味だった彼女だが、進むにつれ調子が乗って説明もリズミカルになり、私達参加者は熱心に聞き入った。日本に興味をもつ外国人観光客からは時々鋭い質問も飛んでいたが、彼女がニッコリ冷静に答えていたのには感心した。下調べをし、原稿を書き、練習を重ねて暗記する。ボランティアとは言え、とても大変な仕事なのだそうだ。それでも彼女は色々な知識が増えていくことが楽しいと、派遣の仕事と掛け持ちしながらいつも活き活きしていた。そしてその情熱あるガイドは10人ばかりの参加者全員に「素敵な街・博多」という印象を刻み、最後は皆の大拍手をもってコースを終えた。そして私は数年後、他地方から訪れる友人に博多の街を案内するなら、是非あの辺りをと思ったのだった。

その友人のもうひとつのお勧めが「博多ライトアップウォーク」だった。秋の夜、ライトアップした博多の寺を巡るというイベントで、その期間のみの特別拝観もあるということだった。昼と夜では全く別世界よと彼女は言った。是非行ってみたいと思いつつ数年経ってしまったが、今年こそはと「博多千年煌夜(とうや)」を散策しに出かけた。
通常は拝観無料の各寺だが、イベント期間中18:00~21:00の間は6枚つづりの入場券を購入し、一か所一枚づつのチケットが必要になる。

まずは大博通りに面した東長寺から。普段は人通りの少ない休日の夜の大博通りだが、この日は東長寺に近づくとすでに人だかりがしていて、お祭り気分になってくる。
中に入ると五重の塔が赤く浮き立っていた。本堂もライトアップされ、いつもより大きく荘厳に見える。庭の細やかな部分にもライトデザインがなされ、特別拝観の六角堂は並ばなければならないほどの賑わいだ。灯りに浮かび上がった弘法大師も喜ばしげだった。

東長寺を後に裏手に回り、聖福寺横の妙楽寺、順心寺を参拝する。昼間はなんてことのない寺門までの通りも、やわらかな灯りで彩られ、土塀には山笠のライトアップ、穏かな気温で待ち時間も全く気にならなかった。
承天寺の前「御共所夜市」では、うどんやそば、饅頭が並んでいた。これらの発祥の地であることに因んでだろうか。雰囲気と匂いに小腹が空く。

博多山笠発祥之地ともされる承天寺ではこの日、特別拝観で洗濤庭(せんとうてい)の美しい石庭を本堂から眺めることが出来た。靴を脱いで廊下をまっすぐいくと、目の前に青から紫へと変化する光の石庭が広がる。その幻想的な美しさには思わずため息。座り込んで暫らくぼーっと何も考えずに眺めていたくなるが、その前にまず写真。方丈の縁にずらりの座った人々が、石庭を前に皆それぞれ携帯の画面を覗き込んでいる姿はこれまた現実的な光景だった。案内板の説明には「方丈手前には玄界灘を表現した白砂、奥には中国に見立てた緑庭が広がる洗濤庭、穏かにそして時に激しく・・・玄界灘の波の力強さと白~青~ムラサキへと穏かに変化するグラデーションで表現。幻想的な色彩のハーモニーが、大陸と博多の交流の歴史を今に伝えます。」と書いてあった。ふと記された照明協力企業名に目が留まる。「デンコウ・・・」懐かしさと共に、もうすぐ消えゆくこの標記へのやるせなさが込み上げた。

激しい時代の波が押し寄せているのは玄界灘でも石庭でもなく、日本企業。兄のプライドだの方針が違うだの言ってられるご時勢ではないのだろう。大きな波に乗って同胞溶け合い強みを集結し、日本ブランドとして世界に打って出なければ、情け容赦ない弱肉強食のグローバル世界だ。そうは言っても社会人生みの親のアイデンティティが溶けゆくのは寂しいものだ。いったい昨今の日本、現役も引退も中途退社も含め、どれだけの企業人が同じような思いを噛み締めていることだろう。  青いブランド名の下の社名を見つめながら、穏かで優しく、活気があったあの頃にノスタルジーを感じる。
青紫のライトアップが途端に諸行無常の流れに思えてしまった夢の如き秋の夜だった。

2011/11/06

M氏へ

「今頃どの辺りだろう」
M氏を想う時、私はいつも七つの海に想いを巡らす。
旅好きだった故人を偲ぶにはロマンがあって、想像が広がる。
遥かな海を航海中、だがメキシコ湾流に乗って意外と近くにいらっしゃるのかも・・・ダブリンでカモメの鳴き声を聞きながら、ふと思ったこともある。

「海に撒いて欲しい」
「何で?」と尋ねる夫人に
「そりゃあ、気分が良いじゃないか。それに海なら世界中何処にでも行けるよ」生前M氏はこう答えたらしい。
初めから賛成だった訳ではない夫人だったが、海へ旅立ちの時には、ポルトガル旅行の思い出であったエンリケ航海王子の帆船を手作りして見送ったということだった。なんて粋な船出だろう。氏がエンリケ王子の船の帆を張って、大海をぐんぐん進んで行く様子は想像しただけで楽しくなる。
氏の心意気に夫人の優しさ、私にとって永遠のベストカップルである。

 私が実際M氏にお会いしたのは一度きり、フランクフルト空港で日本への便を待っていた時だった。
ふとした事から会話が弾み、何故だか住所を交換し、そして手紙を書くようになった。
「又、お手紙ください。貴女の手紙は味が良くて楽しい」という褒め言葉にすっかり気を良くしてしまったのが正直なところだ。旅行好きという共通点以外、お互いのことは何も知らなかったが、だから思ったままを素直に書けた。そしてそれを夫人と共に読んでくださり、面白いと感じてもらえたと分かると、無性に嬉しかった。いつの日か大好きなアルザスを案内したいなぁ・・・だがM氏の旅立ちは早すぎた。今年で7年になる。それでも今、氏の存在は過去のものではない。航海中なのだ。
世界中何処にでも行けるから、世界中何処にいてもお見通しとなる、そんな気がしている。

今年始めのことだ。久しぶりに声を聞いた夫人から、いきなりブログを勧められた。ちょうど私はアルザスで、自分の日本語に不安を感じ始めた頃だった。1年以上全く日本語を使わない生活をしていると、たまに日本へ電話をした時、言葉がスムーズに出てこなくなる。ブログは日本語の良いリハビリにもなるなと、思い切ってやってみることにした。アルザスについて、とにかく手紙を書くように書いてみよう。そうだ、あの頃のように・・・。始めてみると、自分でも不思議なくらい次々に書きたいことが浮かんできた。「その調子、次も楽しみにしてますからね」夫人の支えは大きな原動力だった。単調になり始めていたアルザスでの生活が、活き活きと輝きを復活した。写真も撮りたい。毎日が急に忙しく、楽しくてたまらなくなった。その上ブログのお蔭で、気になりつつご無沙汰していた方とやりとりが出来たり、新しい友達が出来たり、嬉しいハプニングも起こった。日本に帰国しても日本語がスルスル問題なく出てきた。

先日何年もぶりに夫人と再会し、博多の街を案内することが出来た。M氏の妹君とは待望の初対面だったが、不思議と‘初めて’な気が全然しなかった。
「それにしても女同士、よーしゃべっとる。」
全てお見通しのM氏とはいえ、ここまでとは想定外だったかもしれない。
生憎の雨も「より良い情緒」に変えてしまう天性の旅上手な夫人と妹君、案内するつもりがいつの間にか、私自身がすっかり楽しんでしまっていた。何を見ても楽しい学生時代の旅行のようなエキサイティング感さえ漂っていて、これぞ旅上手のエスプリなのかもしれない。

最後の夜、博多の街は灯明ウォッチングの催しで彩られていた。東長寺本堂、間近でみる山鹿踊りの幻想的な灯篭の中、私は静かに手を合わせ、この不思議な縁に心から感謝した。

2011/09/07

リスペクト

日本がまだ世界第二位の経済大国で、日本語を学ぶことが流行にもなっていた頃のことだ。それほど昔の話ではない。

私はロンドンで、日本語教師養成の学校に通っていた。日本語教師になるために必要な文法から言語学、音声学、教授法などを学ぶ。卒業前には30時間もの実習が続いた。20名ばかりのクラスの中で3人グループを毎回編成し、それぞれ1時間の授業プログラムを立てて教材を準備し、1人20分ごとに連携プレイで教壇に立つ、というものだった。
日本語を習う生徒役は一般公募で集められた。生徒ボランディアだが、無料で日本語の授業が受けられるというので人気があった。昼間にもかかわらず、性別、年齢、国籍の違う10人ほどの生徒が集った。ロンドンはコスモポリタンな都市だから、英国人だけではない。職業も学生や主婦、年金受給者と様々で、教師やピアニスト、ちょうど昼休みだからとオフィスを抜け出して来るビジネスマンの姿もあった。
日本語教師志望の私達はこの実習に真剣に取組んでいた。グループごとの作業に熱くなり、実習の前日は夜10時過ぎまで学校に残って教材作り、なんてことも珍しくなかった。だがそんなにがんばっても、実際は予想通りにはいかないのが常だった。初級、中級のクラス分けはあるが、生徒の理解レベルは様々だ。言語は違っても、「英語」を習得してロンドンに住んでいる外国人の方が日本語についても理解が早い。多言語を学ぶ必要が薄い英国人は不利となる。
またピアニストの男性の耳と記憶力がよく、1、2度のリピートで完璧な発音を習得していくのには驚かされた。彼に言わせれば、言語も「音楽」らしい。才能だと思う。
教える側の私たちは次第に、のみ込みの遅い数人をマークするようになった。今日の課題をこの数人に理解させることが出来れば、実習は「成功」となるからだ。どうやったら分かってもらえるだろう?試行錯誤が続いた。
マークされた一人にトムさんという英国人男性がいた。大きな青い目をした人で、英国人にしてはさほど背が高くなく、ビール腹が目立ち始めた30代後半の愛嬌ある人だった。授業で私達が何かしようとする度に戸惑ってばかりだった。授業で使えるのは日本語のみ。簡単な事でも英語では許されない。それでも一生懸命な姿に、何とか理解して欲しいとこちらにも熱が入る。もどかしくなることもあったが、みんなトムさんに親しみを持って接したつもりだった。一度も冷たい態度を取ったことはない。

ある日、懇親会ということで、みんなでパブに行く機会があった。授業ではないから英語と日本語、思い思いに両方が飛び交う。たまたま私はトムさんの近くの席になった。日頃はたどたどしいトムさんだが、パブでの彼は普通の英国人、英語だと話も弾む。そんな彼がはっきりとした英語で話し始めた。「僕はね、人より日本語の上達が遅くて、たどたどしいのは良く分かってる。きっと言語習得に向いてないんだろうね。でもね、クラスを出れば一人前のイギリス人なんだよ。仕事を持って、妻や子供もいる。幼児じゃないんだ。君たちはみんな親切で良い先生だと思う。ただね、日本語が出来ないってだけで、幼児扱いをするのは良くないんじゃないかと思うんだ。日本ではそれが普通なのかい?個人としてのリスペクト/尊重はしっかりするべきなんじゃないかな。人生においては僕の方が君達のほとんどよりずっと大人なんだよ。」最後はイギリス人特有のウィット交じりだった。

「もーッ。トムさーん、いいですかァ、もう一度聞いてくださいねェ。これとあれ、どちらですかァ?」
「ソーです。正解です。トムさん、よく出来ましたネー。ハーイ、では次にいきますヨォー。」
丁寧語は使っているものの、言い方そのものは幼児に話すのと同じ調子。親しみが深くなるにつれ、その調子は強くなるばかりだった。私達教える側のそんな態度は私自身も気付いていただけに、はっきり言われと、すっかり恥ずかしくなってしまった。私たちに悪意がないことは彼も充分承知している。だが、だからと言ってそれで良い訳ではない。
それ以来、トムさんの言葉はそのまま私の中で大きな教訓となった。何かを教えるという時だけでなく、人と接する時には気をつけなければならないと今も思っている。懇切丁寧と幼児扱いをすることは決してイコールではない。フランスではマダム、ムッシューをつけて、リスペクト/尊重は常に形に表される。それを欠いてしまえば、養護施設の車椅子に乗った、動きのままならない年老いたマダムからでも一喝されて当たり前。初めてそれを目撃した時は驚いたが、御尤もなことである。

今、人材育成支援事業のパソコンスクールに通っている。久しぶりに学生を味わいながら、私はトムさんの言葉を思い出さずにはいられない。が、日本の場合、先生の前になると子供になりきってしまう大人もいるようだ。パソコンの技術そのもの以上に難しさを感じる毎日だ。

2011/08/20

ダブリン 魚物語

もう何年も前になるが、アイルランドのダブリンに滞在していた。ちょうど今頃の季節だった。7、8月とはいえアイルランドの夏は涼しい。梅雨はないが、年中雨の多い国なので日本と同じくらいの湿気がある。緑だけがやたらと濃かった。同じヨーロッパでも、カラリと青空の多いアルザスから来ると別世界だった。
だから面白い。アルザスには海がないがダブリンにはある。
毎朝カゴメの泣き声で目覚める度、微かに微かに一瞬感じる潮の香りに心が弾んだ。

そんなある日のこと、玄関のベルが鳴って扉を開けると大家のH氏がにっこり立っていた。H氏はダークブラウンの目をしたジョージ・クルーニーのような美男、だがそんな彼には似合わない無造作な新聞包を手にしている。
「ちょっといいかな」キッチンへ直行するとテーブルの上でその「無造作な新聞包」を広げた。
中から現れたのははち切れんばかりにピチピチしたTrout/鱒だった。
「釣りに行った帰りなんだ。すごいだろ」
「デカイ。こんなのが釣れるの!」
「今日はラッキーだった。60センチあるんだよ。計ったんだ。」
得意げなH氏は少年のようで微笑ましかった。クールな人かと思っていたのに、獲物を誰かに自慢したかったってわけですね。
「あげるよ」
「えっ?」言葉を失ってしまった。吃驚して止まった脳を必死で動かし、断りの言葉を捜した。
「そんな、折角釣った、こんな立派な魚を、いただくわけにはいかないわ。」
「いいんだ。家には料理する人いないし、夕方は約束があるから。」そう言えばH氏は離婚調停中だった。
「釣れたってだけで大満足さ。オーブンで1時間ぐらい焼けばいいよ」
私の表情が不安気に見えたのだろうか。彼はウィンクしながらそう言うと、新聞紙の真ん中にごろんと横たわる鱒を置き去りにして、さっさと帰ってしまった。
どうしよう・・・・。

魚の美味しい国から来た私だが、こんな大きな魚を相手にしたことなんかない。魚は切り身しか・・・こんなことなら日本で母からもっと料理を習っておくべきだった。が、後悔したときは遅し。目の前には息絶えた鱒がどうにでもしてくれと横たわっている。大きすぎて冷蔵庫にも入らない。やるしかないのか。
ナイフを手にした。日本では信じられないかもしれないが、キッチンに包丁はない。ましてや出刃包丁なんてしゃれたものなどあるわけがない。あるのは小さな万能キッチンナイフのみ。

まず魚の表面にナイフの刃を滑らせ、ウロコを取った。透明なウロコがパチパチ飛び散ったが、キッチンの汚れなんか気にしている場合じゃない。次に内臓。魚と目を合わせないようにぐぐっとひと思い、腹に短いナイフを差し込んだ。ぐにゅっ。新鮮なだけに弾力性があるが、正直グロテスク。手を止めてしまったらやり通す自信がない。無我夢中だった。塩でもんで、ブチ切りをして、天板にのせ、オーブンに入れた時にはぐったりしてしまった。
魚の生くささが、キッチンのみならず、部屋中に満ちていた。食欲ないなぁ。
ところがである。30分を過ぎた頃から焼き魚の香ばしい香りが漂い始めた。とお腹もそれに合わせて空いてくる。急速にグロテスクな格闘は過去となっていった。オーブンの中、目の前に見えるのはぶちぶち油の跳ねるピンク色のおいしそうな焼き魚。
出来上がりがどれだけ美味だったかなんて言うまでもない。醤油と、ちょうどあったレモンをかけて(カボスでないのは少々残念だったが)、ご飯といっしょに完璧な夕食だった。

魚の美味しい国から来た民族ということを実感した出来事である。魚をさばくなんてやったことはなかったのに出来た。グロテスクなんて言っておきながら、美味しく平らげた。
我ながら目からウロコのダブリン体験だった。

2011/08/13

オーストリアへ ウィーン

ついに最終目的地、ウィーンに到着。アルプスや山間の村、古都も良いが、都会も良いなぁというのが正直な感想だった。甲乙なんてつけ難い。言い方を変えれば、それだけウィーンには都会としての美しさと魅力があるということだ。ロンドン、パリのように大きくはないが、音楽、芸術、歴史、食とあらゆる方面で、通の人々にも充分な刺激を与え得る上質なものが凝縮している。それでいて大都会の齷齪さがなくゆったりとして、その雰囲気が街に優雅さを与えているように思える。これもハプスブルグ家栄光のシンボルということだろうか。

さてハプスブルグと言えば、「戦争は他家に任せておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と家訓にある通り、その栄華は16人の子供を産んだ女帝マリア・テレジアにも代表されるが、結婚政策にあった。マリア・テレジアの娘で、フランス最後の女王となったマリー・アントワネットについては日本でもよく知られている。また半世紀以上後になるが、本家本元オーストリア帝国では、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にドイツ公家から嫁いだ皇妃エリザベートが有名だ。古い映画になるが、ロミー・シュナイダー主演の「シシィ」がヨーロッパを一世風靡したこともあり、今でもシシィ(エリザベートの愛称)の人気は衰えることがないようだ。ハプスブルグ家から嫁いだマリー・アントワネットとハプスブルグ家に嫁いだエリザベート、どちらも次々と社交界の流行を創り出し、伝説の美貌を持つ女性で、当時も今も女性としての賞賛の対象だった。だが、「ヨーロッパ」をひとくくりにしてしまう日本人感覚からは理解しにくいが、他国から来た「よそ者」でもあった。
そのことに気付かされたのは、日本でフランス語の先生と話した時だ。彼は日本におけるマリー・アントワネットの人気が理解できないと言った。フランスにおいてはそれほど人気があるわけではないらしいのだ。はじめ私にはそれが理解できなかった。フランス最後の女王だというのに?だが彼曰く、彼女はオーストリア人であり、フランス人ではない。贅沢三昧をし過ぎ、フランス民衆の敵となった人物ではないか。確かにその後フランスでも、彼の言を思い出させられるような意見を聞いた事がある。マリー・アントワネット自身も一生ハプスブルグ家を強く意識し、それだけにフランスが冴えなく映ったりもしていたようだ。一方ドイツ公家から嫁いだエリザベートは厳格なハプスブルグ家にしっくり馴染むことが出来ず、孤独感を紛らわすべく、旅行ばかりをするようになる。皇帝の深い愛情にもかかわらず、幸せだったとは言い難い人生だったようだ。どちらも時代は違うが、「一人の人間としての幸福を求める」など考えすら及ばなかった時代の女性の宿命だったのだろうか。結婚にしろ、出産にしろ、それが国の行く末を左右するという重い使命を持ち、それでいて大きな時代の流れの前には無力でしかなかった。

政略結婚と言えば日本の歴史も例外ではない。日本が勢力を伸ばしていた時代、公家令嬢、浩という日本女性が満州国最後の皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁いだ。波乱に満ちた時代に翻弄された人生である。だが政略結婚でありながらも、お互い2人の間に芽生え、大切に育まれた普遍の夫婦愛に、私は感銘を受けずにはいられなかった。
ドイツにいた時のこと、時々行った中華料理のレストランで、オーナーの中国人マダムと中国のラストエンペラーについて話をする機会があった。私が弟溥傑のことに触れると、彼女はそうそうと首を縦に振り、「私、若い頃、夫妻に会ったことがあるの」と言い出した。
「ちょっと待ってて」レストランの上階にある自宅に戻って1枚の写真を持ってきた。
彼女は昔ドイツに移住する前、中国のホテルで働いていたらしく、そのホテルに溥傑夫妻が休暇で宿泊客として滞在したことがあり、その写真はスタッフの一人がいっしょに写ってもらえませんかと頼んで撮ったものらしい。老夫婦は若い制服姿のスタッフ達に囲まれ、朗らかに見えた。どんな人だったのかという私の好奇心に、彼女は何十年も前の鮮明な記憶を辿ってくれた。
溥傑の妻が日本人であることは当時の彼女も知っていたが、とても日本人とは思えない普通の中国人のようだったらしい。2人とも目立たないが感じがよく、スタッフにも親切で、写真の申し出も快く受けてくれたとか。何より2人の仲睦まじさが印象的だったと彼女は繰り返し言った。 

運命とは異なものだ。何をどうしたからどう転がって、どういうことになっていくのか誰にも分からない。個人の資質や努力とは関係ない大きな力に流されることも多々ある。運命を創っていけるほど人間は強く出来てはいないのではないか。最近ではそのようにも思える。ただ避けることの出来ない大きな波をどう捕らえ、向き合っていくか、結局その姿勢の足取りが人生というものなのかもしれない。
今も昔も、歴史上の大人物にとっても、唯の人にとっても、人生とは修行であることに変わりはないようだ。

2011/08/07

オーストリアへ リンツ

Linz/リンツはザルツブルクとウィーンの中間に位置するドナウ川沿いの商工業都市だ。表情豊かなアルプスの山景色の虜になってしまうと、都会が近づくにつれ、なだらかになっていく風景にがっかりしてしまう。またヨーロッパ中どの国でも言えることだが、工場が発達してしまった都市は、栄えた街であっても、どこか殺伐とした印象を受けてしまう。リンツもそんな街のひとつだった。
だがそれとは別に、この地で私達は期待以上の素敵な目的達成が出来た。そもそもなぜリンツに立ち寄ることにしたか、それはアルザス名物のTarte de Linz/タルト・ド・リンツの故郷だからだ。「リンツのお菓子」というこのタルトは、ドイツ語でLinzer Torte/リンツァートルテ、アーモンドの粉末と、シナモンやナツメグなどの香辛料を入れた生地に、ラズベリージャムをたっぷりはさんだ焼き菓子だ。アルザスではケーキ屋は勿論、ベーカリーでも良く見かける。店によって生地がソフトだったり、クッキーのようだったり、またラズベリージャムの食感にも違いがある。こんなに美味しい菓子だから、遠くオーストリアからドイツ、スイス、アルザスへ伝わったのだろうと想像できる。折角オーストリアを訪れるのなら、一度本場リンツでオリジナルのタルト・ド・リンツを食べてみたい、これが私達の目的だった。

さて車を降りて、早速メイン通りから探索を始めた。路面電車の行き交う通りの両側に、流石本場だ、あるあるリンツァートルテの看板。ウィンドー越しに綺麗な箱に詰められた丸いトルテが並んでいるのが見える。それはまるで、大宰府天満宮の参道に並ぶ梅ヶ枝餅屋のよう。大宰府といえば梅ヶ枝餅のごとく、リンツといえばタルトなのだろう。だが、私達の目的は土産品として買うのではなく、味わうことにある。裏通りに入ったほうが良いという直感に導かれ、通りを逸れてみた。暫らく当てもなく、だがアンテナはピンと張って歩いていくと、そのカフェは現れた。リンツに行ったらと描いていたそのままの、雰囲気あるカフェだった。

店を入ってすぐはベーカリーだった。手作りの美味しそうなパンが棚にずらりと並んでいる。ウィンドウの中には菓子パンやケーキ。目移りしそうなのを抑え、「リンツァートルテはありますか?」と尋ねると、「ありますよ。カフェは奥へどうぞ」女性が笑顔でカウンターの横手を指した。カフェはこじんまりした広さで、地元の老紳士が新聞を読みながら、ゆっくりコーヒーを飲んでいる。店の男性ともお馴染みのようだ。読み物は新聞だけではない。ドイツ語なのでさっぱりだが、それでも面白そうな写真集や歴史の本が並んでいて、インテリアの一部になっている。壁には古い地図や写真、何だか歴史を感じるカフェだ。運ばれてきた「リンツのお菓子」を堪能していると、それまで寛いでいた周りの客が、次々と会計を済ませ帰ってしまい、店はがらんと私達だけになってしまった。
「閉店時間ですか?」
「いやいやまだいいんだよ、ゆっくりして。旅行者?
何処から?」
店の男性のフレンドリーさに、思わず何のためにリンツに寄ったかの話をした。彼は急に職人的な面持ちで、
「リンツのリンツァートルテはどう?」
「遥々来た甲斐のある美味しさです。」
「それは良かった。実はうちの店はねぇ・・・・」
彼は彼の祖父が始めたこの店の3代目ということだった。オーストリアの歴史が好きで、壁に飾られた古い地図は彼のコレクション、ハプスブルグ家全盛期のヨーロッパ地図だった。「フランスのナポレオンもヨーロッパを制覇したけどね、」と気遣い充分ではあるが、いかに当時のオーストリア(ハプスブルグ)が力を持っていたか、その後現代に至ったかを、時々本に手を伸ばし、頁をめくって写真を見せながら話してくれた。こんな所では聞けない、だがここでしか聞けない興味深い話に、私達はタルトのことも時間もすっかり忘れて聞き入ってしまった。

最後に3代目主人が店の案内カードを記念にくれた。
「リンツに来たらまた寄ってよ。良い旅を」
「ありがとう」
店を出て初めて気付いたのだが、閉店時間はとっくに過ぎていて、ベーカリーでは既に掃除が終わっていた。
リンツでの「リンツのお菓子」の思い出だ。

2011/07/30

オーストリアへ ザルツブルク

子供の頃から憧れていた町、それがザルツブルグだ。それは1本の映画から始まる。
「サウンド・オブ・ミュージック」
母に連れられ、梅田の映画館まで見に行った時、私はまだ7歳だった。リバイバルにもかかわらず、映画館は立見が出るほどの観客だった。英語はもちろん字幕の字もよく読めない年だったが、解説は必要なかった。
私はすっかり映画の中に入り込み、トラップファミリーの子供達といっしょに、山の上の草原でドレミの歌を歌い、カーテンで作られたワンピースを着て、歌いながらザルツブルグの街を歩いていた。、映画が終わっても、すぐには現実に戻って来れなかった。
11歳の時、お小遣いで初めて買ったレコード(LP)は「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラック盤、何度も何度も、何度も聞いた。すっかり洋画好きになって、クラスメイトと2人、いつも洋画の話ばかりしていた。今のようにDVDやビデオがないから、映画を見たい時に見ることなんて出来ない。リバイバルで映画館に来るか、テレビで放映されるだろう「いつの日か」のチャンスを心待ちにするしかなかった。そうして見た映画は一つ一つ心に刻まれていった。

ザルツブルクは、私のような深い思い入れを抱く者の夢を裏切らない、いやそれ以上の町だった。シンボルである丘の上のホーエンザルツブルク城塞は内部の見所も多いが、塔の展望台から眺める町の景色にはうっとり時を忘れてしまう。
Salzburg/ザルツブルグ、「塩の城」という名の通り、岩塩鉱から産出される塩で栄えた町で、モーツァルトが生まれた地としても知られる。町の中心にある生家は見学することが出来、モーツァルトが使用した楽器や自筆の楽譜などが展示されている。

「サウンド・オブ・ミュージック」の話に戻るが、トラップ一家がナチスに反し、故郷オーストリアを亡命する前、合唱コンクールに出場する。そこで歌うのが「エーデルワイス」だ。最後には観客全員の大合唱となり、それはオーストリアの人々の愛国心の現れで、とても感動的なシーンだ。
映画「カサブランカ」でも同じく、モロッコ・カサブランカの酒場にいたフランス人が全員立ち上がり、ナチスを差置き「La marseillaise/ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)を歌うシーンがある。こちらも感動的。それで私はずっと「エーデルワイス」もオーストリアの国歌だと思っていたら、そう思っている人も少なくないらしいが、実は映画のために作られた1曲だったらしい。

Edelweiss, edelweiss,
every morning you greet me.
Small and white, clean and bright,
you look happy to meet me.
Blossom of snow, may you bloom and grow,
bloom and grow forever.
Edelweiss, edelweiss,
bless my homeland forever.



但しこの「高貴な白」という意味の高山植物エーデルワイスは、オーストリアの国花だそうだ。
国歌ならず国花だったという訳。何はともあれ可憐で気高い花であり、美しい曲である。

2011/07/23

オーストリアへ インスブルック

流石山国オーストリアだ。ブレーゲンツで難なく丈夫なテントを購入出来、もう1泊牧草キャンプをした後、私達はアルプスの山々に囲まれたInnsbruck/インスブルックに向かった。
車を下りてまず感じたのは空気が美味しいこと。
インスブルッグは15世紀末皇帝マクシミリアン1世の統治下で発展を遂げた、チロル州の州都である。旧市街にはゴシック様式の建物が続き、Erker/エルカーと呼ばれる出窓からは夏の花が鮮やか色合いを添えていた。
その合い間に見えるアルプスの連峰は太陽と共に表情を変える。洗練と自然が、独特な美の相乗効果をもたらしている古い都だ。

バーゼルに長年住む友人がいつも言っていた。インスブルッグはこの世で最も美しい街だ、と。
彼女はインスブルッグ出身だったから、私はずっと故郷びいきの言だろうと思っていたが、訪れてみて心から納得してしまった。街を流れるイン川も清らかな山川だ。インスブルックとは「イン川にかかる橋」という意味らしい。また近郊には、クリスタルで有名なスワロフスキーの本社がある。100年以上続く、オーストリアを代表するファミリーカンパニー。実はその友人のお兄さんがデザイナーとして長年勤めていたとかで、彼女の家にもスワロフスキーのクリスタルが沢山飾られていて、博物館のようねと言ったことがある。日本でも有名なブランドであることを知った彼女はそれが嬉しかったのか、ガラスケースから驚くほど小さなクリスタルのスワンを取り出し、プレゼントしてくれた。インスブルグとスワロフスキーは彼女の誇りだったようだ。それもあってか私の中で、クリスタルの輝きとインスブルグの街の気高い印象が重なり合う。
ゆっくり日曜日の旧市街を散策して、今日の宿、郊外のキャンプ場へ車を走らせた。

キャンプ場は岩山のふもとにあり、着いた途端すっかり魅了されてしまった私達は、切り立った景観が目前に迫りくる位置にテントを張った。山の天気は変わりやすい。テントを張り終わる頃、見る見る灰色の雲が広がり、大粒の雨が降り出した。ところが「プールになることはない」と得意になる暇もなく、今度は太陽が照ってきた。雨上がりのスキッとした空気に、太陽が反射する岩の頂が黄金色に輝き始めたのだ。
夜の星空も切迫感があった。満天の星に、口を開ければ流れ星が入ってきそうな感じだ。眠るのが惜しく感じられたが、横になるとあっという間に眠りに吸い込まれてしまった。

つづく

2011/07/17

オーストリアへ ブレーゲンツ

梅雨が明けて本格的な夏到来、気温は既に34度。
「ヨーロッパの夏はこんなに暑くないんでしょう」とよく言われるが、確かに日本と比べ湿気がないから過ごしやすくはあるが、フランスでも猛暑になった年がある。夏中雨が降らずに毎日40℃近く、病院は熱中症の患者で溢れ、死亡した一人暮らしの老齢者が続出した。南仏では山火事が広がり、フランス中大騒ぎだった。お蔭でCanicule/カニキュール、猛暑という単語を繰り返し聞くことになり、自然に覚えることが出来たが、とにかく暑い夏だった。

フランスの一般家庭ではエアコンを使わない。待ちに待った夏だから暑いのを楽しむ。一軒屋ではプールがなくても庭に長いすを出し、水着で日焼けしながらリラックス。食事も外のテーブルで、が多くなる。アパルトマンでもテラスでのビキニ姿をよく見かける。若くないから、スタイルがよくないから、なんて気持ちは存在しないようだ。南仏など暑さの厳しい地方では、午後の日差しの強い時間、日除け扉やシャッターを半分閉める。このように日光を遮っただけで石造りの家の中はひんやり涼しくなったりするのが通常だ。
ところがその年は異常だった。夜も熱帯夜が続いた。扇風機でもあればと買いに行ったが、既にどの家電販売店でも売り切れで、入荷は未定。
「もう我慢できない」その足でスポーツ店に行き、小さなテントを買った。
7月と8月、フランスはバカンスシーズンだ。誰もがそのことしか頭にない。そうだ私達も避暑でバカンスに出かけよう。思い立ったが吉日、車に最低の着替えと歯ブラシ、テント、懐中電灯を積み込み、出発したのだった。勿論車にもエアコンはないが、窓を開け、心地よい風をいっぱいに受けると猛暑なんて何のその、ヨーロッパでの初キャンプに鼻唄が飛び出す。
目指すは東のエデン。スイスのバーゼル、チューリーッヒを抜けてオーストリアへ向かった。

スイス、オーストリアとの国境が近づくと、大きな湖が左手に広がってくる。ライン川流域で最大の面積をもつボーデン湖で、スイス、ドイツ、オーストリアの国境に接している湖だ。
オーストリアに入ってすぐのBregenz/ブレーゲンツはバカンスを過ごすのにぴったりの湖畔の町だ。夏の湖上オペラは有名らしく、その日も間近に迫った公演の大掛かりな設営の真っ最中だった。
湖畔にも大きなキャンプ場があったが、私達は郊外の牧場に隣接したキャンプ場に向かった。

キャンプというと、私は山登りを描くが、ヨーロッパのキャンプはキャンピングカーでが多い。だからキャンプ場での陣地は車込が通常だ。空いている好きなところに車を止めて、その近くにテントを張る。リュックに担いで物を運ぶわけではないので、あらゆる物が運べる。テーブルに椅子、テーブルクロス、クッション、ラジオ、テレビと、リビングをそのままキャンプ場に移したような様子も少なくない。自然に入り込み、日常と違う最小の道具で工夫をこらしたキャンプが好きな私としては、何だか物足りない気もするが、考え方を変えればそれはそれで便利である。
食事も面倒であればレストランに行けばよいし、買物もわざわざ用意していく必要はなく、キャンプ場近くのスーパーで買える。自然に触れるという点では同じである。
第一日目は涼しい牧草の中、心行くまで星空を満喫して、深い眠りについた。

翌朝、朝露で澄んだ空気を思う存分吸い込み、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。いつもと違う朝、それだけでコーヒーの味も格別だ。気分爽快、隣に陣取った車のナンバーが同じエリアナンバーだったことから、自然と世間話が始まる。アルザスのミュルーズ近郊から来た家族だった。暫らくして、父親が言い出した。
「そのテント、何処で買ったの?」郊外どこにでもある大型スポーツ店の名前を言った。
「やっぱり。それね、気をつけたほうがいいよ。ほら、上の境目に穴が開いてるだろう。雨が降るとここから浸み込んで、テントがプールになるんだ。それがさ、見る見るうちに水がたまってって、大変だったことがあるんだから。」
「テントがプール!そりゃ昨日雨が降らなくて良かった。テントで泳ぐってのもねぇ。道理でおもちゃほどの値段だった訳だ。」
冷汗をかきながらだが、朝からみんなで大笑い。柵の向こうの牛達も吃驚しているようだった。こうなると山登りキャンプでなくて助かった。小さな町だけれど、スポーツ店が何処かにあるだろう。早速雨漏りのしないテントを求めて、ブレーゲンツの町散策に出かけることにした。

つづく・・・・

2011/07/11

傘の旅

梅雨が明けたのに、ではあるが傘の話。
先日父が電車に傘を忘れて下車してしまったらしい。
「娘からもらった傘ですけん」ということで慌てて問い合わせたところ、JRが親切に探してくれ、終点の駅に届けられていることが分かり、着払いで送ってくれたそうだ。母からその話を聞いて、私は首をかしげた。「傘とかあげたことあったっけ」「ほら、英吉利からのお土産で買って来てくれた傘よ。私にも。」
そう言えば傘に凝った時期があったなぁ。

どの本だかすっかり忘れたが、英国紳士の持つ傘について書かれた、上品でおしゃれな英吉利のエッセイを読んだことがある。英国紳士の持つ傘とは、ステッキになり得るほど細くキュッとたためるものだと書いてあったのを記憶している。そしてそんな英国紳士愛用の伝統ある傘ブランドがT.Fox & Companyだと紹介されていた。
ミーハーな私は英吉利に旅行したらお土産は傘だなと決め、そして実行した。海外旅行をしたことがある方にはよく理解いただけると思うが、傘は土産に適しない。折畳み傘ならまだしも、スーツケースに入らないからずっと手荷物として持ち歩かなければならない。重くはなくても邪魔になる。ちなみに折畳み傘なんて英国紳士には相応しくないものらしい。だから伝統ある英国製傘は通常以上に長い傘。それを2本、しっかり持って帰ってきたのだから、我ながら「よくやった」と感心する以上にあきれてしまう。しかも折角の英国製高級傘、父も母も「もったいない」と言って長い間使わなかった。
だが傘土産はまだ続く。イタリアからド派手な雨傘を自分用に(これは好評だったが、かなり使って壊れてしまった)。ベルギーからはブリュッセルレースの日傘を母に持ち帰った(これは恥ずかしいと今だに新品状態)。久々に広げてみると、その時の旅行の思い出までも蘇ってきて楽しくなる。かれこれ15年以上昔のことだ。

その後、私は旅行そのものが高じてロンドンに住むこととなる。そこで発見したことだが、何と実際のイギリス人は傘を持ち歩かない。なぜか?イギリスの天気は気まぐれだから、雨が降ってもどこかの軒先でちょっと待てば小ぶりになる、という訳だ。ましてや伝統高級傘なんて持ち歩いてたら、ちょっとした隙に盗られてしまう。実際私も安物なのに、唯一の傘を傘置きで盗まれ、その後は傘なして通した。

イギリスに住んでいながら、傘も持たずに過ごして帰国した娘に、今度は母が旅行土産として、JAL機内販売の折畳み傘を買ってきてくれた。今だにお気に入りで使っている。小さくて軽く、何より柄が世界地図なのだ。これならどんな雨の日でも楽しく歩ける。いやいや例え雨でも何処かに行きたくなる。そしてその後、この傘は描かれたデザインのごとく、私と共にあちらこちらと世界を旅することになったのだった。

英国製ならず、日本製も優れものですヨ。

2011/07/06

クジラとイルカ

「映画"The Cove" 見た?ショッキング。是非とも見るべし」
アイルランド人の友人からメッセージが入った時、私はまだフランスにいた。近くにレンタルビデオなんてないし、でもどんな映画かと気になってネットで調べてみた。

The Cove/ザ・コーヴは和歌山県鯨の町とも言われる太地町で、毎年23000頭ものイルカが捕獲され、一部は世界中の水族館に売られ、多くは食用にされているという事実を暴いた映画で、2010年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞し、全世界が注目したドキュメンタリー映画、ということだった。

海外にいると、必ずどこかで話題になってしまう日本の捕鯨問題、その度肩身の狭い思いをするのは避けられない。個人としてはそれも日本の文化だと思っている。しかも日本人は鯨に感謝し、無駄なく全部食べてきた。豚や牛は食べるのが当たり前で鯨は悪いという理論には納得できない。だが一方で、絶滅する危機にある動物を食べなくても生きていける世の中だから、止めるべきなら止めてもいいのではとも思う。だから国際間で話し合い、調整し、ルールに沿ってやっているではないか、と意見を聞かれたら遠慮なくそう言っている。私自身も子供の頃普通に塩鯨を食べてきたし、お酒は飲めないがオバイケが好きだったりもした手前、「可愛そう」なだけの偽善は言いたくない。

そうしたところある日、フランスのTVで、過激な海洋環境保護団体として知られるシーシェパードについてのドキュメンタリーがあった。反捕鯨については日本だけでなく、ノルウェーやアイスランドといった北欧諸国もターゲットになっていて、過激な妨害を仕掛けられるので捕鯨船にとっては頭を痛める存在だが、リーダーのPaul Watson/ポール・ワトソンがインタビューの中で言った。目の前で子供や女性が暴力を受けていたら見過ごせるか?理屈がどうのこうのよりまず助けようとするのが人間だろう?反捕鯨の闘いはそれと同じだ、と。使命感に燃え、確固とした信念と正義を貫く強さを感じる人だった。闘いが似合う人でもあると思ってしまった。

日本に帰国して、今度は偶然にも2本のNHKの特集番組を見た。「クジラといきる」と「小さな町の国際紛争~太地町とブルーム市の苦悩~」だ。
映画による波紋で、太地町の捕鯨に携わる人々の暮らしが脅かされている現実と、その苦悩、それは遠くオーストラリアの姉妹都市であるブルーム市にまで及び、太地町からの移民が必死で発展させた町という歴史を持つにも関わらず、日本人先祖の墓石が荒らされ、日本との絆が引き裂かれようとしている。またそれに立ち向かう日系子孫達の奮闘も描かれていた。

どちらも憤りと遣る瀬無さでいっぱいになってしまうドキュメンタリーだった。日本にも言分がある。そのまま英語版にして世界に発信出来ないものかとさえ思った。太地町の捕鯨に携わる人々は、高級スーツを着て、高層ビルオフィスに座り、パソコンをクリックするだけで、何十億、何百億を瞬時に稼ぐマネーゲームの人達とは違う。自らの命をかけて労と共に、真面目に仕事に励んできた人達だ。生命を奪う仕事であるだけに、生命の尊さと、生きることへの感謝を日本の文化からしっかり受け継いでいる。そんな太地町の人々に10万円の札束を振りかざし、金をやるから捕鯨を止めろと叫ぶアクティビストこそ、いったい「生きる」ということを理解しているのだろうか。こうなったら映画を見ずにはいられない。

こうして意気込んで観た「The Cove/ザ・コーヴ」だったが、実は観終って、益々何が何だか分からなくなってしまった。TVのドキュメンタリーはフランスTVもNHKも捕鯨に関して。ところが
映画そのものはイルカを虐殺するなと言っている。そして私は日本人ではあるが、日本人がイルカを食べる民族だったとは全く知らない。イルカはクジラ類だが、一般的にはクジラとイルカはいっしょではない。いったい何が何を目的とし、どうなっているのか分からない。

映画ではイルカ肉が鯨肉として売られていると言っていた。だがイルカ肉には水銀が含まれるため、危険であるらしい。また日本政府が公表している情報は都合のよい嘘であり、都合の悪い事は隠蔽しているとも。FUKUSHIMAの件もあり、確かにあり得る事かと思える。だがそうだからと言って正義のストーリー、アクティビストが危険なイルカ虐殺の町に乗り込み、最先端技術を使ってクールにスマートにイルカ虐殺を密撮影するというアメリカ大衆風タッチの映画を全面信じる気にもなれない。そういう意味でこの映画は、世界を扇動し、日本叩きが目的だとしたら(監督は決してそうではないと言っていた)大成功だと言えるが、当事者を始め日本人を説得させるには不十分で、逆効果でさえあったのではないかというのが感想だ。

それにしても物事は視点や立場によって、こんなにもストーリーが変わってしまうものなのか。
文化や思想、慣習が違えば仕方ないことなのかもしれないが、それだけにマスメディアやマルチメディアからの1つの情報で判断することは出来ない、判断してはいけないと強く感じた。
現代社会はインターネットの発達や衛星放送の発達であらゆる情報が氾濫している。公の情報の信頼性は揺らいでいるが、マスメディアといっても視聴率や利益とは切っても切れないのだから、嘘はつかないまでも事実の都合の良い部分だけを強調し、大衆好みに色付けして報道してしまうこともあるだろう。インターネットの情報も、真偽の程は個々の判断に委ねられ、責任の所在はない。
結局のところ、自分の体験でない情報は信頼し切ってしまうな、便利な世の中になったとは言っても、やはり座っているだけで世界を知ることは出来ない、ということかもしれない。

2011/06/28

博多祇園山笠

日本の梅雨はうっとうしい。雨の中に咲く紫陽花に趣はあるが、毎日じとじと、洗濯物が乾かない。おまけに気温が上がると体もだるく重くなってしまう。だが博多の街では毎年この時期になると、久留米絣の長法被姿を見かけるようになり、お祭り気分の高揚を感じる。山笠を舁く博多の男達の気合が入る季節なのだ。

博多祇園山笠は全国的にも有名な博多の祭りだが、どんたくがみんなで参加して楽しむ市民の祭りであるのに比べ、こちらは博多区の櫛田神社に祀られた素戔嗚尊/すさのおのみことに奉納される祇園祭のひとつだ。氏子たちが伝統的に行ってきた町内行事でもある。6月からは行事の連続で、特にTVでも放映される7月15日夜明けのクライマックス、タイムを競う「追い山」は一番の見どころだ。起源については諸説があるらしいが、通説では鎌倉時代の1241年、博多で疫病が流行した際、臨済宗・承天寺の開祖、聖一国師が、疫病除去のため施餓鬼棚/せきがだなに乗って祈祷水をまいたのが発祥とされている。当時は神仏混淆の時代、これが災厄除去の祇園信仰と結びつき、山笠神事となっていったらしい。
かつては京都の祇園祭のように、豊臣秀吉が行った「大公町割」による流れ/グループごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていた。ところが江戸時代の1687年、休憩中の土居流が恵比寿流に追い越される「事件」が起こり、越されてたまるかと抜きつ抜かれつの競い合いになったのが評判となった。これが「追い山」に発展したそうだ。博多もんの気質だろうか。だがこの「追い山」はとにかく迫力がある。
午前4時59分に一番山笠がスタートする。櫛田神社境内の清道を回って奉納し、境内で「博多祝いめでた」を歌う(一番山笠のみ、1分)。その後、「オイサッ、オイサッ」という掛声と共に多数の男たちが交代を繰り返しながら山を舁き回る。二番山笠からは5分おきに出発。「追い山」は櫛田神社から須崎町の廻り止めまで博多の町約5キロのコース、それぞれのタイムを競うレースである。コースは何処も観光客や地元の人々で熱気をおび、沿道のあちこちから勢い水が次々に舁き手に浴びせられる。狭い通りなどでは見物客にかかることもあるが、それも祭りの興。最後の最後まで勢いは増すばかりだ。
一方、山笠が全て清道を回り終えると、櫛田神社境内では喜多流の能楽師により紋付き袴の姿で「鎮めの能」が厳かに舞われる。また各流れでは追い山の後、「祝いめでた」で1本締めをして、直ちに舁き山を解体してしまう。この潔さがまた良い。これも博多もんの気質だろうか。
そして博多は梅雨明けを迎えるのが恒例だ。

私が始めて「追い山」を見に行ったのは既にOLになってからのことだった。夜明けの祭りの興奮後、7月15日が平日だとそのまま朝の出勤となる。充分間に合う時間ではあるが、前日仕事が終わって、そのままオールナイトになる博多の街に繰り出し、生まれて始めてカンテツ/完全徹夜をしてのことだった。
午後になって眠気が襲い始めた頃、「ヤギちゃん、眠いやろう」課長がなぜか近づいてきて、私の顔を覗き込むように言った。「いいえ、眠くなんかないですよ。」しらっと答えてみたが、
「そうか?眠いはずやでぇ、昨日徹夜であそんどったもんなぁ。」一気に目が覚めた。な・なぜ課長がそんなことを知っているのだ?彼は私の驚きを見て取ると、満足げにニンマリして言った。「ヤギちゃん、TVにでとったでー。今朝のニュースで見てん。飾り山の前におったやろう。」
そうだ、思い出した。午前3時ごろ、友人達と飾り山の前で喋って時間をつぶしていたら、テレビ局のカメラが来て、山笠は初めてですかとインタビューされたのだった。1瞬だったからすっかり忘れていたのに、よりにもよって課長が見ていたとは。「元気やなぁ、徹夜して山笠見に行くなんて。今日は定時で帰りや。」
オレには何でもお見通しさ。遠ざかる課長の後肩がそう言っているかのように上がっていた。

クールに仕事をしているつもりなのに、何かしらいつも尻尾を見られてしまうOL時代の、梅雨明けの日の思い出であった。

2011/06/22

マルタの花・・・ポリジ

NHKのBSプレミアム「猫のしっぽ カエルの手」という番組の「京都 大原 ベニシアの手作り暮らし」では、大原に住むイギリス人ベニシアさんの自然溢れる暮らしが紹介される。日本の伝統・文化を大切にしながら、日本と西洋とが絶妙に融合した手作り暮らしだ。実際にやるとなると大変な労が必要とされる暮らしだと思うが、見ている分にはリラックス出来て楽しい。
先日その中でベニシアさんが、庭に咲いたハーブの青い花「ポリジ」はそのままサラダに入れて食べれる花だと紹介した。
「マルタの花だ!」懐かしく、心が一気にアルザスに飛んだ。

 マルタとの出会いは昨年のこと、暑い夏の日の午後だった。じりじりと照りつける午後の太陽に閉口しながら、外出先から近所の通りまで歩いて戻ってきたところ、前方をひとりの小さなマダムが手荷物を提げ、足取り重く坂道を登っていた。思わず足を早め声をかけた。
「ご近所にお住まいですか。荷物をお持ちしましょう。」驚きと共にしわくちゃの汗ばむ顔がぱっと輝いた。
「C'est vraiment gentil /ご親切にありがとう。すぐ近くよ。重くはないのだけど、今日は暑すぎるわね」
世間話をしながらゆっくり数分で彼女の家の前まで来た。ご近所さんだった。門の前で引き返そうとすると、庭に野菜を植えているからくれると言う。
いやいやそんなつもりはないと断ったら、声をかけられたのがとても嬉しかったからだと言い、私が日本人だと分かると更に、昔日本に旅行したことがあると、その時の旅の話をあれこれ話しはじめた。先ほどの老女は何処へやら、とても85歳とは思えない、小さな体にエネルギー溢れる、会話もシャープでウィットにとんだマルタというアルザシアンに変わっていた。

それから私達の近所づきあいが始まった。彼女は裏庭に広い畑を作っていて、行く度に色々な新鮮野菜や旬のベリー、ハーブなどを気前良く取ってくれた。どれもがスーパーの野菜など比べ物にもならないほど味があり、ズッキーニも生のままサラダにして美味しく食べれることを教えてもらった。タンポポについて聞いたのも彼女だ。野菜や果物、植物、動物に詳しく、世界中を旅したことのあるユニークな女性で、定年まで公務員として働いた職業婦人でもあった。実は60年連れ添ったというご主人が10ヶ月前に亡くなり、気落ちしていた時期だったそうだが、気丈に明るく、いつも忙しく体を動かしていた。

ある日、そんな彼女の野菜畑に小さな星の形をした青い花が咲いているのを見つけた。茎の部分がふさふさとしていて可憐な花、何気なく見ていたら彼女が行った。
「好き?それも持って行きなさい」
「可愛いけど、花は切らずに庭に咲いているのを眺める方がのいい」
「何言ってんの。食べるのよ」
「食べる?」
「知らないの?サラダに入れてそのまま食べれるのよ。ストレスに効くし、体にいいものがいっぱい。美味しいから。」そう言いながら手際よく摘み取ってくれた。
食べるにはもったいないほど可愛い青い星の花、サラダにする前に写真を撮ったものの、教えてもらった名前を忘れてしまい、書き留めておけばよかったと日本に帰国して後悔していたところだった。
ベニシアさんのお蔭でその名は「ポリジ」、フランス語ではBourrache/ブラッシュだと分かった。
ムラサキ科の一年草、地中海沿岸原産のハーブで、カルシウムやリン、ミネラル成分を含み、古くから薬草としても利用されてきたらしい。別名を瑠璃萵苣(るりちしゃ)、スターフラワーともいう。

紫に近い青い花、マルタの少女のような青い目を思い出す。私の中ですっかり「マルタの花」になっていた花だった。

2011/06/12

若杉山の見える風景

若杉山山頂からの眺め
2階のマイルームから毎日見えるのはアルザスのVosges/ヴォージュ山脈ならず、糟屋郡の若杉山。
「若杉山が近くに見えるから、後で雨になるよ」
「若杉山の頂が見えてきた。天気になるね」と地元の人々には馴染み深い山で、かの菅原道真を祀った太宰府天満宮の後ろに聳える宝満山まで、三郡縦走といって一日がかりになるが、縦走もできる。
この若杉山、日本各地の多くの山々と同じく、唯の「山」ではない。山頂に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀った太祖宮/たいそぐうがある。神功皇后(西暦170-269年)が朝鮮半島出兵の為祈願し、その時手折ってお守りとした神木を、凱旋の後、香椎宮に植えた。今の香椎の綾杉だ。その綾杉を神明加護の御礼に再び枝分けして太祖宮の山に植えたことから「分け杉山」と言われるようになり、それが訛って「若杉山」となったのが名前の由来らしい。
また後年、弘法大使/空海(774年-835年)が真言密教を悟り、唐の国(中国)より帰国して訪れたことでも知られ、山頂から少し下ったところには弘法大使を祀った「若杉奥の院」があり、篠栗霊場八十八ヶ所巡りの番外札所となっている。
こうして若杉山は古来より山岳信仰や真言密教の聖地として、修行の場ともされてきた。そのため伝説やそれにまつわる見所も多い。その一つが挟み岩だ。

先日遥々、ロンドン滞在時からの友人が家族で会いに来てくれた。彼女もヨーロッパ、中東各国に住んだことのある移動人で実家は東京、九州は初めてという。近場を案内・・・と思いついたのが若杉山だった。前回会ったときは3歳だった彼女の息子は13歳になり、背丈は既に私以上、それでもエンジェルのような笑顔は変わらず、挟み岩の話をすると目を輝かせて面白がった。
挟み岩というのは山頂から若杉奥の院へ向かう途中にある、鎖が渡された幅30センチの奇岩で、善人しか通れないという、ヒヤリとするようないい伝えがある。
「じゃあ悪い人が通るとどうなるの?」
「岩が閉じてきて挟まれてしまうのよ。怖い?」
「怖いなぁ。僕通れるかなぁ。大丈夫だと思うけどなぁ。どうだろう。」
よし、行ってみようということになった。若杉山はふもとからの登山もできるが、奥の院遥拝所まで車で登ることもできる。それでも山頂への最後の詰めはかなり急な坂を登らなければならない。山に慣れない友人家族にとってはコクだったようだが、それでも杉の香りに満ちた瑞々しい緑の中何とか登り切り、太祖宮を参拝した後、いよいよ挟み岩へ向かった。
「こんなの通れない。無理だ。助けて!」
「大丈夫、そこに足をつけて、今度はこっち。鎖をしっかり握って。」
パニックと興奮、恐れと達成感、予想以上に楽しみながら無事に皆通過でき、若杉奥の院へたどり着いた。奥の院には弘法大使の独鈷の一撃で岩間から湧き出したとされる霊水「独鈷水/どっこすい」がある。癖のない軟らかい味で、そのまま飲むことができる。これまでに一度も枯れたことがないらしく、この霊水で高熱が下がったことがあると傍にいたお遍路さんが教えてくれた。ちょうど水分を補給したいところでの有難い水、思わず「もう一杯」とお代わりしたくなる。

次に遥拝所の駐車場に戻って更に走ること数分、隣の米ノ山山頂に着く。米ノ山はパラグライダーの発進基地としても知られ、見晴らしが良く、山あいの鳴淵ダムや駕与丁池をはじめ、その向こうには福岡市街や博多湾を眺めることができる。夜景のスポットにもなっているらしく、夜は若者カップル車が多いらしい。が、昼はお弁当を広げるのに最高の場所である。

ゆっくり絶景パノラマを眺めながらおにぎりを食べた後、今度は山中にある「大和の大杉」を見に行った。若杉山には、「大和の大杉」「トウダの二又スギ」「七又杉」「ジャレ杉」「綾杉」など樹齢500年以上の巨大杉があり、森林浴をしながら大杉群を巡る遊歩道が整備されている。その中でも「大和の大杉」は樹高40メートル、幹周16m15cm、根元近くから5本の幹に分かれている為、5本の杉のように見えるが、実は1本という巨大杉。地元の人が知っていたとはいえ、平成13年に確認されるまで人知れず、山中でひっそりと長い長い年月を過ごしてきた。いったい何を見て何を感じてきたのだろう。若杉山が古代から霊峰とされてきた由縁か、木の精に問いかけたくなるような神秘を感じる大木だった。

自然すぎて日本にいると当たり前のようだが、神と仏が闘うことなく同じ山に共存できたのは、結局は山に宿る自然の不思議の力とそれに対する人々の尊敬の念からではないだろうか。
それを源とすれば神も仏も仲間でしかない。そんなことを考えながら、森林セラピーを満喫し、心地よい疲れを感じながらも体の奥にエネルギーが充電されたような気分で帰路についた。
天気も良く、友人家族も大満足で、すっかり若杉ファンになったようだった。

2011/05/27

Rose Garden/薔薇園

「空」は土地それぞれ、季節や時間、天気によって色が変化するが、
結局は限りないひと続きの宇宙である。

哲学などではない。タイトルを変えずにブログを続ける為の単なるこじつけ。空の色はいろいろとすると、アルザスに限らず、日本やこれまで訪れた国のことなども気ままに書いていけるなぁと思ったのだ。

実家の傍に町立の図書館がある。ちょっとした小川の流れる庭もあって、小さな子供連れや、犬の散歩途中のホッと一息出来る場所になっているようだ。小川沿いには手入れの行き届いた薔薇が植えてあり、この季節は色とりどり華やか、風に乗った甘い香りに思わず足を止めたくなる。

薔薇といえば、初めてのロンドン旅行で訪れた、Regent's Park/リージェンツ・パーク内にあるQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンを思い出す。6月の初め、薔薇が満開の季節だった。
今年は英国ウイリアム王子の結婚が大きな話題になったが、ちょうどその年、私達のロンドン滞在中には、日本で徳仁皇太子の結婚式が行われた。婚礼当日が国民の休日となったため、プラス3日の年休と土日を合わせ、6日連休で飛べたロンドンだったのだ。当時の会社では、海外旅行の為の連続年休などまだ一般的ではなかったから、3日の年休の承諾を得るのに、辞表覚悟の意気込みだった。意外にも快く了承され、「世界を見るのは良いことだ。ロンドンか。くれぐれもスリには気をつけるように。」と気難しい上司に言われたときには、狐につままれたような心地だった。
グローバルという言葉が飛び交い、日本はバブル景気の余韻でまだ機嫌が良い頃だった。

会社の別の部署にいた同期と学生時代からの友人と女3人、楽しくて楽しくて興奮しっぱなしの旅だった。リージェンツ・パークの芝生に座ってサンドイッチのランチ。そんなことが夢だった。自由に街をぶらぶらしている自分達に酔いしれた。ロンドンは街の中心のあちらこちらに公園があり緑が豊富だから、どこか雰囲気もあくせくしていなくて、初めてでも馴染みやすい。事前にガイドブックを読みあさり、行きたいリストをそれぞれ出し合って計画を立てたのだが、その中のひとつがQueen Mary's Rose Garden/クイーン・メアリーズ・ローズガーデンだった。
まるでこのガーデンを訪れるために狙って日本から来たかのように最高の見頃で、公園中、花壇も垣根もベンチの上にかかったアーチも薔薇で埋め尽くされていた。イギリスらしい曇り空の下、薔薇の花もヨーロッパの女性のごとく、円熟の美を醸し出しているように思えた。その中で私達はまだまだ薔薇より団子、若く青く、ピカピカしていて元気が良かった。

さて、メアリー女王のバラ園にも負けないバラ園が、アルザスにはないが、ここ粕屋町の駕与丁公園にある。あらゆる種類の薔薇2300株が池を望む高台に集められていて見事だ。細やかな手入れはボランティアの手によるものらしい。立体感のある場所なので、「薔薇に埋もれる」感じが味わえる。住民でありながら知らなかったが、薔薇は粕屋町の町花でもあるらしい。
アルザスはあまりに遠いので簡単に言えなかったが、粕屋町なら日本国内、一度お越しになりませんか?

2011/05/21

さようならアルザス、またいつの日か

アルザスを離れ、日本に帰国した。

初夏の最も美しい季節だというのに残念だが、欲ばかり言ってはいられない。
もっと早くブログを始めていればよかった、アルザスについてもっともっと色々なことを書きたかったと後悔しても仕方ない。

32時間かけての移動、流石アルザス━福岡は遠い。
だが一方で世界が小さくなっていることにも気付いた。インターネットのお蔭だ。今も私は福岡の実家でアルザスのラジオを聞きながらPCに向かっている。今回の移動にもこのネットが大活躍だった。

これまで海外でフライトチケットを取る場合、各国の日系旅行会社を探して電話で予約をし、出向くか、遠い場合は振込みをして送ってもらうかをしていた。日本行きの場合はそれが一番安い方法でもあった。ところが今回ネットで色々調べてみると、フランスの旅行会社や航空会社のHPから日系旅行会社と同等、もしくはよりお得にチケットがネット購入出来るのだ。振込み、郵送という手間や時間もかからない。PCとクレジットカードとプリンターがあれば、明日のフライトチケットでも購入できるという便利さなのだ。それで今回私は一番お得だったカタール航空、PARIS━関空 ドーハ経由 片道456ユーロを使ってみた。中東の航空会社大丈夫なの?なんて心配することなかれ。カタール航空は10年ほどの新しい会社だが、飛行機はどれも新しく、食事、サービスも申し分なかった。何より乗り継ぎの待ち時間がなく効率的。今目覚しく伸びている航空会社だ。

PARIS━ドーハ便で、はじめ私の隣にオリジナルアフリカのフランス人青年が来た。座席番号を確認して座るなり、彼は周りを見回し、ゆっくり眠りたいから広く使える席に移るつもりだと、片言の英語で言った。
「乗客はそれほど多くなさそうね。私も2席分ゆっくり出来るから有難いわ」と言うと「なんだフランス語分かるの」とホッとしたように言った。ドーハ経由で私と同じく大阪に行くらしい。
「この状況下、多くの人が日本から去ってるというのに何のために日本に向かうの?」
「でも君もじゃない」
白い歯むき出し茶目っ気たっぷりの笑顔に、私は彼が日本中チェルノブイリだと思ってしまっている一部のフランス人とは違うことを察した。ダンスのオーデションを受けに行くらしい。バレエダンサーには見えない。尋ねるとヒップホップだと答えだ。受かったら日本に住むことになるそうだ。
「親や友達は心配したけどね。放射能は大阪まで来ないから大丈夫だと思うんだ。地震は・・・その時はその時さ」
「関西には弟や友達が住んでるけど、大丈夫よ。あなたの勇気、日本人として嬉しいわ。オーデション受かるといいわね。Bonne chance!/幸運を祈ってるわ」
「Merci./ありがとう」
彼は嬉しそうににっこりすると、空き席を見つけて移動していった。私もゆっくりとリラックス、ミュルーズから3時間半のTGV/フランスの新幹線移動の後でもあり、目を閉じると離陸を待たずして眠りについてしまった。

2011/05/16

アルザス料理

アルザス料理と言えば、まず最初に出てくるのはChoucroute/シュークルートだろう。ドイツ語でSauerkraut/ザワークラフトといい、ドイツ料理でもある。意味は「すっぱいキャベツ」。乳酸発酵により酸っぱくなったキャベツの塩漬けで、ビタミンCが豊富。酸っぱいが酢は使われていない。 通常レストランでは
La Choucroute Garnie /シュークルート・ガルニと言って、この「すっぱいキャベツ」の上にソーセージやベーコン、ポテトなどが豪快に乗って出て来る。果実味の強いアスザスワインやビールとよく合う。
キャベツを繊切りにし、塩、白ワイン、香辛料と共にかめに入れて漬けるというシンプルな方法だが、ワインや香辛料の違いにより、各家庭やレストラン独特の味になるようだ。と、ここまで書いておきながらだが、私はアルザスに来て長い間、シュークルートを食べたことがなかった。酸っぱさが苦手で、ソーセージやベーコンもシンプルに蒸し焼きしてあるだけ、ソースがかかっているわけでもないし、アルザスにはもっと美味しい料理が沢山ある。

シュークルート 例
ある日、ムッシュー・シュラフのレストランで日替わりランチを頼んだら、その日はシュークルートだった。初体験にはもってこいのレストラン、運ばれてきた皿を見ていつものことながら吃驚。日替わりランチだからと手抜きはない。山盛りの温かいすっぱいキャベツに白いソーセージ、黒いソーセージ、サラミ、ベーコン、ハムが気前良く盛ってある。こんなに一人では食べれない・・・ところが今度は我が胃に吃驚。キャベツの軟らかい酸味のお蔭で、するすると重い肉の塊が吸い込まれるように入っていくのだ。ムタード(西洋からし)の辛さがこれまた良く合う。結局平らげてしまい、アルザス料理と言えばシュークルートと言われる所以が、何だか分かるような気がしたのだった。


フライシュナーカ 例
 さて、私のお気に入りアルザス料理はFleichschnacka/フライシュナーカという料理だ。
ハーブや香辛料を入れた肉のミンチを生パスタでロールし、輪切りにしてフライパンで焼き、牛の髄でとったスープにつけたもの。
サラダが付け合せになる。
一度友人宅でフライシュナーカの手料理をご馳走になったことがある。アルザスを離れる前のことで、友人が郷土料理をと腕によりをかけてくれたのだった。同じフライシュナーカでもミンチに入れる野菜やハーブ、香辛料によって家庭それぞれに伝統の味があるそうだ。今でも忘れられないほど美味しかった。
彼女の父親は2年前にこの世を去ってしまったが、長年Boulangerie/パン屋を営んでいたらしく、引退して80歳近くになってもタルトやクッキーを作るのが好きで、良くいただいた。厳しい時代のアルザスを生き抜いた世代だが、いつも優しいジョークで周りを和ませてくれる人だった。
彼女がその日デザートに出してくれたForêt Noir/フォレ・ノア-ルの美しさ、美味しさはこれも格別で、流石ロベールの娘さん、こんなに美味しい「黒い森」は初めてと褒めちぎったら、彼女もうれしそうに笑って、もう一切れいかがと勧めてくれた。

フランスでは仲良くなると、家庭へ食事に招待される機会がよくあるが、それぞれの家庭の味、地方の味と共に、もてなしの心と楽しい会話がいつも食事を更に美味しく彩ってくれ、レストランでの食事とはまた違う味わいの時が皆で楽しめる。

2011/05/11

パリVSアルザスのレストラン

学生時代の女友達4人、初めてのヨーロッパ、パリに旅行した時のことだ。まだ20代前半だった。夕食に美味しいフランス料理が食べたくて、現地日本人ガイドさんにオススメを尋ねた。頭には映画に出てくるようなビストロを描いていた。
「どこか美味しいレストランご存知ありませんか?」
「そうねぇ、美味しいって言えば私は時々Ritz/リッツに行くわ。味はなかなかよ。」
幸いなことに私達4人とも、当時はお菓子のリッツクラッカーしか知らなかった。
「リッツって、どうやって行ったら良いのでしょう?」
「4人なら、ホテルからタクシーが便利よ。運転手なら誰でも知ってるから簡単よ。」
美味しくて、簡単に行けるならそこにしようと全員一致、夕食はリッツへ行くことにした。
頭の中ではパリのビストロ、狭いテーブルの間を長いエプロン姿のギャルソンがお盆を掲げて颯爽と歩いてた。タクシーが高級ホテルの前に止まると、戸惑った私達は確認のため、
「レストランのリッツなんですけど~」運転手はここだよとブスッと言った。
来たからには、と4人で勇気を出してレストランに入った。「ご予約は?」勿論ない。
だが時間が早かったため、テーブルをつくってくれた。目を見張るような豪華な内装。
スゴーイこれぞパリ。だが困ったのはメニューを見たときだ。最低のプチコースが当時の計算で約1万円だったのを覚えている。まだクレジットカードは持ち歩かない時代のこと、まず4人テーブルの下でこそこそ、持ち現金フランを確認しあった。良かった。何とかプチコースと水なら4人分オーダーできる。皿洗いをせずに帰れると思うとほっとして、途端に楽しくウキウキになった。
料理に何が出てきたかは覚えていない。ただ、どれもとても美味しかったこと、ワインでなく水にもかかわらず、食事中給仕が二コニコと良いタイミングに来てくれて、各グラスに少しずつ注いでくれたのを覚えている。「来たぞ来たぞ日本人の若い女の子、最近パリに増えたよなぁ」と思われていただろうが、見下した素振りは全くなかった。自然で上品なサービスは今だにいい思い出になっている。トイレも広くて豪華。興奮して写真を取りまくり、4人ともすっかり「リッツ」のファンになった。シャネルが晩年住んでいた、パリでも伝統ある超高級ホテルだと知ったのは、帰ってきてからのことである。今から思えば、気取った意地悪な現地のガイドさんだった訳だが、その意地悪が私達には通じず、お蔭でまたとない楽しい時が過ごせたのだから、今はその意地悪に感謝している。

さて次は、パリのリッツにも負けないアルザスのレストランを1つ紹介しよう。
その名は「Metzgerstuwa」。残念ながらこのアルザス語の発音、何度聞いても分からない。一般にはオーナーの名前、ムッシューSchluraff/シュラフのレストランと言っている。Mulhouse/ミュルーズとColmar/コルマールの中間にあるSoultz/ソゥルツという村にある。横は肉屋さんで同じ経営だから、レストランが美味しく値段もリーズナブルなのが納得出来る。レストラン内は部屋が複雑でいくつもに分かれている。空席情況により案内されるが、螺旋階段を登ったり、部屋を横切って奥の階段から3階へ案内されたり、時には調理場を通り抜けたりもするから面白い。食べる前にキッチンの様子が見れるわけだ。それだけにとても清潔で、調理人も多く皆忙しそうだが、いつもにこやかに「ボンソワール!」
料理はアルザス郷土料理でどれも美味しくボリュームがある。最近1/2サイズができたが、それで普通の1人前ぐらい。食事の前のアミューズと最後に出てくるアルザス特産、アルコールの強い果実酒シャナップはレストランのおもてなしだ。時々体重200キロのムッシュー・シュラフが各テーブルを挨拶に回って来る。「こんばんは、食事楽しんでくれてるかい?足りなかったら遠慮しないで言ってね。お代わりあるから。」優しい目をした気さくな人で、大きな体はいつも機敏に動いている。ブタのコレクターでもあり、レストランのあちこちにブタの絵画や置物などのコレクションが飾られている。実はこのムッシュー・シュラフ、レストラン以外にも長年の料理キャリアを活かした色々な活動をしていて、全国版TVにも何度も出演しているそうだ。大きな体と人懐っこいキャラクターはどこでも人気者間違いなしだ。
最近ではインターネットやガイドブックのお蔭で日本でもアルザスのレストラン情報が得られるが、未だ日本では知られていない「Metzgerstuwa」だ。
最後にフランス語ではあるが写真と雰囲気だけでも楽しめるので、素朴なHPを紹介する。

www.metzgerstuwa.fr

1)上の写真をクリックすると拡大されます。
2)右上のA la carte 、Les vinsをクリックするとメニューになります。
  写真付でないのは残念。
3)英語版は・・・出てきません。

2011/05/05

La fille de coeur/心の娘

ある日TVを付けると、シラク前大統領の娘という明らかにアジア人の女性がトークショーで話していた。養女らしいが母国が中国なのか、ベトナムなのか、日本なのかその時は分からなかった。養女になるまでのいきさつも全く知らない。だが、政界の大者が血の繋がりのない、人種の違う娘を養女にする、ちょっと日本では考えられないことだと思い、それだけに興味を持った。

その後暫らくして、あのトークショーに出ていたシラク前大統領の養女、Anh-Daoが書いた半生記"La fille de coeur" /「心の娘」を偶然本屋で見つけた。同じアジア人として親しみが湧く。思わず買ってしまった。内容は分かりやすい文章で、波乱万丈な人生が明るく笑いを誘うタッチで描かれていた。実は彼女、ベトナム難民だったのだ。フムフム。ベトナムはフランスの旧植民地、要人の誰かの娘を養女として迎えた(助けた)のではないかと頁をめくっていったが、私の想像は全く外れた。

彼女は教育者の娘として裕福に、フランスに憧れを持つ母親の影響を受けながらのびのび育つが、ベトナム戦争を境に、それまでアメリカ寄りで成功してきた父親の絶望、北と南というだけでのベトナム国内での差別の中、就職難、貧困と苦労を強いられ、とうとう難民として運を天に任すべく、家族と別れボートに乗り込み祖国を脱出する決意をする。

これまでベトナム戦争のことについては、映画やドキュメンタリーなどで少しの知識はある。だが良く考えてみると、これらは皆アメリカから見たベトナム戦争でしかない。ベトナム人から見たベトナム戦争は実際この本が初めてだった。

ボートはベトナムを脱出したものの、マレーシアの難民キャンプで2年待たされる。その間にも病気、死、飢餓が難民仲間を襲うのを目の当たりにし、それでも彼女は生きる希望を強く持ち続け、やっとの思いでフランスに入国、シャルルドゴール空港で歓声をあげ喜び合う難民の中、何故か一人泣いてしまう。その時、当時パリ市長だったムッシュー・シラクが通りかかり、彼女を養女にと決めるのだ。彼女自身、ムッシュー・シラクを知っているわけではないし、翌日本当に現れるまで半信半疑だった。1979年彼女は21歳。それからはやさしいマダムとムッシュー・シラクの養女としてのおとぎ話となる。

シラク前大統領の政治的な顔は別にして、養女を迎えた家族の父親としてのムッシュー・シラクと母親としてのマダム・シラクはとても温かく、思いやりの深い人だ。少し年下の実の娘達との分け隔てをしない心配りにも胸が熱くなる。また一言もフランス語を喋れない彼女への厳しい思いやり指導も心憎い。フランス人の大らかな人間愛だろうか。血にこだわる日本人の気質とは違う面があるように思う。

一般にもフランスでは、養子縁組にアジアやアフリカ、人種の違う子供を迎えるケースが増えている。それはそれで色々と問題がないでもないが、迎えた両親は肌の色や目の色の違う赤ん坊に「わが子」としての限りない愛情を注いでいる。

年齢を重ねるたび、自分に流れる血なるものを強く感じる今日この頃だが、血だけではない限りない愛情というものがあるのも頷けるし、信じたい。地球の裏側から来た子をわが子として迎える。そうすることで人間を一人救えるのならこんなに素晴らしいことはないかもしれない。とは言え、さて自分に出来ますか?と問われると、情けないが正直ノーとしか言えない。だからでもある。肌の色の違う子供をもつカップルを見かける度、素直に敬服し、その家族の末永い幸せを心から願いたくなってしまうのだ。